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2007-04

ユビキタス社会に向けて…、次世代電池に挑む技術開発

と   き:2007年4月20日(金)
訪問 先:日立マクセル株式会社 小野事業所
講  師:相談役、前代表取締役社長 赤井紀男氏
コーディネーター:相馬和彦氏(元帝人(株)取締役 研究部門長)

 2007年度前期「異業種・独自企業研究会」の第2回例会が、兵庫県小野市にある日立マクセルの小野事業所で開催された。地理的には鉄道の便が必ずしも良くないが、京阪神からの高速道路によるアクセスは優れており、事業所は緑や花に囲まれた大変環境の良い工業団地内にあった。当日はまず赤井紀男相談役にご講演をいただき、質疑応答の後グループに分かれてボタン電池の製造工程を見学した。講演は二部構成で、前半は日立マクセルの概要、後半は「ユビキタス時代に向けて、次世代電池に挑む技術開発」と題し、創立以来のコアである電池に焦点を当てたものであったが、同社のアナログコア技術に軸足を置いたモノづくりに賭ける思いが滲み出た内容で強い印象を受けた。以下講演内容を要約した。
 同社は1961年に日東電工から乾電池、磁気テープグループが分離独立して創業されたものであるが、社名そのものがMaximum Capacity Dry Cellと乾電池に由来していることからも電池に懸ける思いの強さが伺える。2005年度の業績は連結で売上2,041億円、営業利益56億円、従業員4,528人であり、セグメント別では材料・デバイス・電器18%、情報メディア63%、電池19%である。BtoBとBtoCが半々を占める。また海外への進出も進んでおり、売上比率で日本36%、米国32%、欧州18%、アジア14%となっている。
 アナログコア技術をベースとした新製品では世界初、国内初の商品が多く、世界初では超高性能マンガン乾電池「塩化亜鉛形乾電池」、書き換え型DVD-RAM、国内初ではアルカリ乾電池、カセットテープ、酸化銀電池、塩化チオニルリチウム電池などが列挙出来る。
  同社は事業基盤が「モノつくり力」にあることを明言しており、「モノつくり力」を支えるのは「アナログコア技術」x「人・設備・プロセス」であると明確に定義しているのはメーカーの姿勢として感服した。「アナログコア技術」が同社の国際競争力の源泉であり、今後もそうあり続けることは、講演後の質疑応答でも再確認された。
 デジタル化のなかで電池は生活の隅々にまで浸透し、まさにユビキタス社会を象徴しているが、電池の国内生産量は2006年度で58.8億個に達しており、日立マクセルでは年間8,500万個を生産している。量産化技術の確立が事業の核となるが、生産速度は毎分600個にも達している。電池そのものの歴史は古く、2000年前のバクダードの遺跡から電解液形の電池が出土し、当時既に実用化されていたことが判明している。原理は現在でも同じであり、使用される原料も簡単に入手が可能なので、電池性能とコストを支えるのはまさに技術ノウハウの塊であり、それが「モノつくり力」として同社の国際競争の基本にある。そのことがマンガン乾電池、アルカリ乾電池、リチウム一次・二次電池、酸化銀電池、更には燃料電池へと技術を発展させてきた原動力であることが、講演の中で如実に示されたのは、メーカーに働く者にとっては重要な示唆であった。
 講演終了後の質疑応答では、電池の長寿命化、リサイクル、国際競争力などに関して質や意見が出された。長寿命化ではアルカリ乾電池では5年を達成しており、リチウム電池でも現在長寿命化を開発中。リサイクルでは酸化銀は回収率が80%台と高かったが、最近はボタン電池を装着したままの携帯機器を何台も保有する人が増えてきたため、回収率としては30%台に下がってきた由。マンガン電池の資源回収はコストに合わないので、土にかえすのが最も合理的。高性能のボタン電池、リチウム電池などはノウハウの塊であるため、今でも電池本体は日本で生産し、海外で組み立てる方式を取っている。これは将来も維持する方針だとのことなので、日本の高性能電池における優位性は将来も維持可能と安堵した。  質疑応答終了後、3班に分かれて工場見学および新製品の紹介・説明を受けた。10年ほど前にもボタン電池の工程を見学したことがあったが、当時はパーツを集めて自社で組み立てた手作り感の強い装置という印象であったが、今回は各工程がユニット化されており、工程毎のノウハウが蓄積され標準化されていることが感じられた。また不良率を下げるため、工程毎に検査されるばかりでなく、最終製品の性能も全数検査されるとのことで、検査の徹底が印象的であった。生産は24時間体制でほとんどが無人化されており、「モノつくり力」を支える要素である「人・設備・プロセス」の一端を見ることが出来た。設備・プロセスのノウハウは設備設計者(人)に蓄積され、継承されていくとのことであった。
 講演会場での新製品紹介では、アルミニウム粉末を使用した燃料電池、ガラス成型で作られた広角レンズ、髭剃り刃・有機EL用マスキングなどの電着製品など、小野事業所ばかりでなく、大阪、京都、九州などの事業所および関連会社で開発している新製品が紹介され、同社の将来を担うことが期待された。本日の講演および工場見学・新製品紹介を通じて最も印象に残ったことは、「差別化」という言葉が全く聞かれなかったことである。このことは日立マクセルにおける技術開発、新製品開発が他社との比較による相対的優位性で判断されているのではなく、自社が考えた絶対的な基準を有し、その軸がぶれないことを意味しており、われわれメーカーに対して極めて重要な規範を示している。(文責 相馬)

知識、智恵、こころ/和田昭允氏

和田 昭允 氏
東京大学 名誉教授
お茶の水女子大学 理事
理化学研究所 ゲノム科学総合研究センター 特別顧問 (初代所長)

生命戦略とDNAの物性を結びつける画期的研究で世界に知られる。1980年代初頭、世界で初めて、コンピュータ、ロボット等に依るDNAの塩基配列の大量解読を提唱。各種分光法、DNA塩基配列高速自動解析など、世界に先駆けた独創的手法を開発して来た。今日、世界で活躍しているDNA解析装置は、和田昭允氏に依って構想、その開発が手掛けられた技術。

1952年03月  東京大学理学部化学科 卒業
1954年06月
    |    ハーバード大学 博士研究員
1956年11月
1971年12月  東京大学理学部 教授(物理学科)
1989年04月  東京大学理学部長
1990年~    東京大学名誉教授
1997年07月
    |    日本学術会議 第4部長
2000年07月
1998年10月  理化学研究所 ゲノム科学総合研究センター 初代所長
2004年04月  理化学研究所 ゲノム科学総合研究センター 特別顧問
         横浜こども科学館館長
         東京理科大学顧問
2005年04月  御茶ノ水女子大学 理事 

⟨受賞⟩
松永賞、島津賞、ヘネシー・リヴィトン賞、紫綬褒章、勲二等瑞宝章、横浜文化賞、他

 


 

 私たちは毎日いろいろなことを学び、知り、考え、判断を下し、行動しています。そこでは「知識」が増え、「知恵」がつき、世界が広がります。ここで、「こころ」も豊になると言いたいのですが、現実は豊になることもあるけれど荒んだり貧しくなったりと、人と場合によって違ってきます。

 この3要素を立体的に捉えようというのが、ここでの主題です。具体的には、水平面上に「知識」と「智恵」の互いに直交する二つの軸を取り、それに垂直軸「こころ」を加えた3次元空間を「知の空間」とします。われわれがその空間のどこかにいるか、どのように動いてゆくか、を考えようと言うわけです。
 まず知恵軸と知識軸が作る平面です。かつての日本では、「知識」と「知恵」の二つがよくバランスしていました。だから「知識」は僅かでも、「知恵」を絞ってその僅かな「知識」を活用すると面白くなって、もっと知りたいという「知識欲」が湧いたものです。その知識欲に駆られて一所懸命勉強して「知識」を増やす。そうすると、それを使おうとして更に「知恵」が湧いてくるのでした。まさに「知識」と「知恵」が互いに励まし合いながら「知の発展スパイラル」を昇る感じだったと思います。知識なしには、動物の「生活の知恵」以上のものは発揮できない。そうかといって「知識」がいくらあっても「智恵」がなく知識軸にへばりついている人は、“歩く百科事典”にすぎません。
 今日残念なのは、両者が互いに刺激し合うこの局面を、教育が作り出せないことです。戦後の教育は、入試や就職競争などさまざまな要因が複合して「知識」偏重となり、ギュウギュウ詰め込まれる。その結果「知識」を使うための「智恵」を出す余裕がなくなってしまった。だから子供達は勉強がつまらなくて「知識」を求めたいという興味も意欲を失ってしまった、と見るのは偏見でしょうか。いわゆる“ゆとり教育”も、この基本構造の上に意味を持ってくると思うのです。
 さて、第三の「こころ」軸の問題です。「知識」と「知恵」の目盛りはゼロから正方向にしか伸びませんが、「こころ」軸は正・負両方向に伸びます。「こころ」軸上で我々を動かすものは「動機(インセンティブ)」――「幸福」「快楽」などへの願望・欲望です。 ということで、この軸には上に延びる“正”と下に延びる“負”の方向があります。正方向は、「愛」「慈悲」「思いやり」「信頼」など、家族愛、人類愛など。負方向は、一口に言って「欲」でしょう。行き過ぎた金銭欲、権力欲、支配欲、征服欲、などです。新聞紙面を賑わせる諸事件――浅はかな「知識」と「知恵」が連動して大活躍!――を思い出して下さい。ただし、ある程度の欲は発展のために不可欠で、そこの判断が難しい。
 「知識」・「智恵」の連動に「こころ」が参加しなければ文明は退廃、そして崩壊するでしょう。しかし「こころ」だけを単に感傷的・近視眼的に取り上げた場合、カルト集団の悲劇に結び付きかねません。「知識」・「智恵」・「こころ」は互いに強い相互作用を持っている三要素ですが、そこに「善の発展スパイラルに入る」と「悪の発展スパイラルに入る」という正と負の相互作用があります。これを、優れた先人が「知識」と「知恵」を使って善のスパイラルに入っていった歴史を教えるのが教育の役割です。

 人生の知の発展スパイラルを自ら登るに当たって、また後進の教育に当たって、高く広い世界的視野に立って「知識」「智恵」「こころ」のバランスのとれた育成、それらの善き方向への相互刺激的発展を考えたいものです。
 

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本田の航空機事業進出、次世代技術のリーダーシップに関わる日本の課題

2007第年度前期「21世紀フォーラム」
第1回 : 2007年3月22日(木)
講  師:(株)本田技術研究所 主席顧問・前専務取締役 荒木 純一 氏
コーディネーター:LCA大学院大学 副学長 森谷正規氏

 ホンダがいよいよ航空機事業に参入する。
 6-7人乗りのビジネスジェットを開発して、2010年に発売するのだが、性能に優れていて経済性が良く、米国市場で非常に好評であり、すでに100機以上を受注している。
 ホンダはこの航空機を20年かけて開発して来て新しい事業を開始するのだが、2007第年度前期「21世紀フォーラム」の第1回例会で、その開発と事業化への壮絶な闘いを本田技術研究所の主席顧問を務める荒木純一氏から伺った。荒木氏は、ホンダがこの航空機事業化のために米国に設立したHonda Aero,Inc.の初代社長である。
 ホンダが航空機の開発に本格的に着手したのは1986年、和光基礎技術研究センターにおいてであった。当初、機体は米国のミシシッピ大学と提携して開発・設計し、エンジンはホンダが独自に小型のターボファンエンジンを開発した。機体もエンジンも自社で開発しようというのが、他社がやらないことをやるというホンダらしさである。大型旅客機から中小型機、軽飛行機まで、機体とエンジンは別の会社が開発、生産するというのが、航空機界の通例であるが、ホンダは敢えてそれを破ることに挑戦したのである。 
 航空機の開発には、多大の人員と膨大な費用と長い期間を必要とする。ホンダは金と人をかけて開発を着々と進めてきたが、続行のか出来るかどうか、危機に遭遇することもあった。それは、1990年代に入って乗用車市場が急速に悪化して、ホンダは利益が急減してゼロに近くなったからである。利益を上げるためにはあらゆる面での経費削減をしなければならず、巨額の費用を要するF1への参加も取り止めることになった。当然ながら基礎技術研究も縮小せざるをえなかったが、航空機開発と、もう一つの基礎的な開発の目玉である二足歩行ロボットは、経営トップの決断で継続することになった。その経緯を荒木氏は詳しく語ったが、トップの独自技術開発への強烈な意志と開発部門の革新技術に賭ける熱情が結び付いての決断であった。ロボットASIMOとビジネスジェットはいま、自動車メーカーを越えるホンダの企業イメージを際立たせるものになっているが、F1を止めても基礎技術研究は続けるというホンダの開発スピリットのシンボルである。
   ホンダジェットには多くのユニークな特長があるが、その最大のものは、主翼の上部にエンジンが搭載されていることである。これは、航空機の常識では空気抵抗を増やす不利が大きいとしてありえないことであった。だが、航空機に新たに挑戦するホンダの技術者は、そのような常識には頓着しない。極めて重要なエンジン配置にさまざまなアイデアを出して、風洞実験をしていて、エンジンを主翼のある位置に載せると抵抗が意外に少なくなることを発見したのである、しかも、エンジンを機体から離すことによって、室内空間を広く取ることができた。この常識破りによって、ホンダジェットは燃料消費が少なくなり、経済性に優れたものになっている。荒木氏の話によると、この翼上エンジンの是非を米国の航空機の専門家に問うてみると、大半は否定的であったが、ユーザー側は見慣れない機体をまったく問題にしなかったという。専門家がとかく狭量で近視眼的に陥りやすいという事実を明らかにしてくれる。
 こうして技術開発は素晴らしかったが、航空機の事業化は容易ではない。その苦闘を荒木氏は語った。最大のものは、安全性が極めて重要である航空機には、あらゆる面での認可が必要になることだ。トラブルが生じると墜落つまり死亡事故につながりかねないので当然であり、乗用車とは大きく異なっている。ホンダは、ホンダジェットの生産をできれば日本で行いたかったのだが、それは不可能であった。多種の部品、部材を調達しないといけないが、米国での認可を取得していないと、採用するわけにはいかないのだ。残念ながら日本には航空機市場が育ってなく、非常に膨大な労力を要する認可を取ろうという企業が日本にはほどんどいないのである。やむなくホンダジェットは米国での生産になるのだが、国産で最初のジェット旅客機の開発が始まっていることでもあり、数多くの部品、部材メーカーが航空機産業へ参入してくれるよう、荒木氏は切望していた。航空機の分野で日本に生まれた画期的に優れた技術開発を、日本の産業全体の資産にしていきたいものである。 採用するわけにはいかないのだ。残念ながら日本には航空機市場が育ってなく、非常に膨大な労力を要する認可を取ろうという企業が日本にはほどんどいないのである。やむなくホンダジェットは米国での生産になるのだが、国産で最初のジェット旅客機の開発が始まっていることでもあり、数多くの部品、部材メーカーが航空機産業へ参入してくれるよう、荒木氏は切望していた。航空機の分野で日本に生まれた画期的に優れた技術開発を、日本の産業全体の資産にしていきたいものである。

(21世紀フォーラム:森谷正規)

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学ぶ意欲と想像力/森 健一氏

森 健一 氏

東京理科大学
専門職大学院 総合科学技術経営(MOT)研究科教授

1962年 東京大学工学部応用物理学科卒
     東京芝浦電気(東芝)入社
     同社 総合研究所にて「磁気薄膜メモリー」の研究に携わる
1963年 「文字読み取り研究」に徐々に移行。
     同年末、手書き文字に関する特許出願
1967年 郵政省からの委託開発「自動手書き郵便番号読み取り装置」
     の開発成功
1970年 特許庁長官賞、大河内記念技術賞受賞
1978年 わが国初のワープロ「JW-10」商品発表
     情報システム研究所長を経て
1996年 取締役 パーソナル情報機事業本部長
1999年 東芝テック(株)社長
2004年 東京理科大学MOT大学院 教授
2005年 本田賞受賞
2006年 文化功労者顕彰

  論語に『学而時習之、不亦説乎』とありますが、私たち人間が持っている学ぶ意欲や創造力は本能的なものに違いない。
新経営研究会は松尾代表の努力によって25年も継続されてきたが、それは同時に、企業に属している多くの人たちの学び続けようとする強い意欲に支えられているからでもある。私は現在、東京理科大学の技術経営大学院に在籍しているが、ここにも社会人学生が300万円の学費を自分で負担して勉強に来ている。社会人学生は企業で仕事をしているうちに問題意識を持ち、それをどのようにして解決したらよいかをじっくりと考えたり、自分の体験を体系化してもっと良い解決策を考え出すために勉強しようと、強い意欲を持ち大学院に来ている。学んだことを企業において実践を繰り返すことで、その人たちはさらに成長していく。学ぶ意欲は誰もが持っており、実際の生活の中で常に活用している。
一方、創造力の方は少し事情が違うように思われる。企業に新人が入社してくるが、その人たちに向かって『この中で創造力に自信がある人は手を上げてください』というと誰も手が上がらない。創造力は本能的に誰もが既に持っている。創造力が無ければ人間生活などできない。しかし、大学までの教育期間の中で、自分がどれほど創造力を持っているのかを体験して実感する機会が無かったために、手を上げられないのが実情である。そこで、入社した新人たちを5-7人のチームに組んで、解決方法が多数ある課題を与えて、他のチームとは異なる解決案を考え出して、その課題を解決する装置を3ヶ月で実現してくださいという課題を与えると、見事に全チームがそれぞれ異なる原理に基づく装置を実現させてしまう。
  学ぶ意欲と同様に創造力を誰でもが持っているのに、一方は盛んに活用しているのに、他方は潜在された状態のままになっている。サンフランシスコ州立大学の田中名誉教授の研究によると、日本人は他の民族と同様に創造力を持っているにも拘らず、子供の頃に親から「お前は馬鹿だから・・・」という何気なく言われ続けている中に、実際の受験に失敗したり、努力したことが十分に実現しないことがあると、「やはり自分は馬鹿なんだ」と自分で決め付けてしまう心理的なトラウマに取り付かれている人が多数いるということである。欧米の教育では「貴方の・・の才能は素晴らしい」と子供の持っている良い才能を誉めて伸ばすことを重点に行っている。創造力についても同様である。田中教授が大阪大学で行ったカウンセリング実験で、創造力に自信が無いという大学院生に面接して、その人が子供のときに受けている心理的なトラウマを排除する治療を行うと、その人が持っている潜在的な創造力が見事に開花することが実証されたそうである。
  社会人学生が学んでいる技術経営大学院でも、異分野の企業から来た社会人学生同士が活発に議論をすることにより、自分の経験に基づく意見を他人が耳を傾けて聞いてくれ、自分の考えに他人が批判や意見を述べてくれることにより、自分の考えがさらに深まることを体験する。このプロセスにより学生たちが自信を取り戻し、2年度目に研究・制作するMOTペーパーが完成するときには、その人の創造力や才能が開花していることを実際に数多く見ている。大学院で2年間、毎日顔を合わせて切磋琢磨することが重要なことのようである。企業の中では社員がお互いに競争関係にあり、切磋琢磨するような環境とは少し違うようである。日本人はもっと誰もが持っている豊かな創造力を大切にすべきである。

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越前生漉奉書紙 人間国宝 岩野市兵衞氏工房 訪問付記

 2007年3月28日、私たちは、越前和紙の中でも最高峰といわれる生漉奉書紙(きずきほうしょし/100%楮で漉き上げる厚手の和紙)で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けている九代 岩野市兵衛氏を、その工房に訪ねさせて戴いた。  その詳細は、この会のコーディネーターをお願いしている相馬和彦氏のレポートに譲り、私はその付記として、おこがましいことではあるけれども、若干の所感を述べさせて戴くことにしたい。  九代 岩野市兵衛氏の御尊父に当る先代は、水上勉の名作「弥陀の舞」のモデル、主人公の弥平その人である。生漉奉書紙漉き一筋に生きて、1968年、国の重要無形文化財保持者に認定され、越前の名紙匠といわれた。常に最高品質の奉書紙つくりに精魂を傾け、摺師の腕前にも大いによる処であるが、木版画で400回もの摺りに耐えて紙の伸縮によるずれもなく、年とともに色彩が冴え、強靱で、歴史的にも最高品質といわれる越前奉書紙をつくり上げた人である。ピカソや横山大観が愛用した和紙も、この八代 岩野市兵衛氏の制作によるものであった。

        

 米原駅で新幹線を北陸本線特急しらさぎに乗り継ぎ、北陸トンネルを抜けると、奈良時代に国府が置かれ、平安時代には紫式部が少女時代を過ごしたという‘武生’の駅に着く。そこから車で十数分、のどかな田園を走ると、越前五箇と呼ばれる、わが国最高品質を誇る「越前和紙」の産地である。その大滝町という所に、九代 岩野市兵衛氏の工房がある。
 記録に残る最古の越前和紙は、正倉院に保管されている天平2年(730年)の越前国大税帳断簡(切れ切れに残っている紙片)だそうで、その技術は既に極めて高度なものであるという。以来、越前和紙は、千数百年に亘り、しかも越前五箇と呼ばれるこの地で、先人の技術を継承、常に向上・革新しながら漉かれつづけられて来た。
 岩野市兵衛氏によると、越前和紙はとくに奉書紙を源流に、時代の要求に応じて、檀紙、鳥の子、色付奉書紙、書画用紙、襖紙など、様々な和紙が生み出され、常に最高の品質と品格を誇って来たという。
 織田信長や豊臣秀吉の時代には別格の公用紙として取り扱われ、徳川幕府においても特別の格式を与えられていた。歌磨呂や広重、北斎など、江戸時代の初摺り高級浮世絵版画はもちろん越前奉書紙で摺られたものだし、明治に入っては、太政官札用紙は何とここ越前五箇ですべて漉かれた、ということである。
 商品のライフサイクル、或いは、古今を問わず、企業、産業の栄枯盛衰の習いから見ても、幾ら常に最高級品を求めつづけて努力して来たとはいえ、実に千数百年もの長い間、終始、越前和紙が揺るがぬ王座を占めて来た事実、しかも、それはこの越前五箇という、極く限られた一地域においてつづいて来たという事実は、誠に驚嘆すべきことで、希有、奇跡とさえいえる。この秘密は、今後、真剣に研究されてよいことだと、つくづく実感した次第である。
 この越前和紙の長い歴史の中で、頑に守り伝えられて来たのは、「長い繊維を長いままに使う」、そして「自然のものは、自然の性質のままに使わせていただく」ということであったという。
 そのため、九代 岩野市兵衛氏の言葉によると、奉書紙制作のどの工程においても、酷寒、炎暑にかかわらず、自然の繊維が自然の性質を損なわず、むしろより発揮出来るように、文字通り精魂傾け、自然の命に手を添えるように、納得いくまで時間と手間ひまを掛るという。和紙づくりの殆どの工程は、傍目には実に地味な、現代においては考えられない程に根気を必要とする作業である。
 岩野市兵衛氏の、紙を漉きながら口ずさむ紙漉き唄にうっとり心を奪われながら、改めて、本来ものづくりとか労働というものは、このように、今のわれわれには及びもつかないほど過酷で厳しいものがあったけど、そこには、また同時に、今日とは比較にならない程の充実感と喜びがあり、それは、今日よりも、もっともっと人間的な営みであったのだと、改めて深い感慨に耽った次第であった。思えば、昔は、どのような労働にも、そこには必ず唄がつきものであった。
 閑話休題、アダチ版画研究所会長の安達以乍牟氏によると、生漉奉書紙のふっくらとした柔らかな肌合いは、女性の肌を連想させるという。そのため、歌麿などの大首絵など、浮世絵の色白美人の顔の多くは、奉書紙の地肌そのままを使うのだそうである。
 また、越前生漉奉書紙で摺った浮世絵版画の発色は、他産地のものに比して格段に優れているという。
 ここで特徴的なのは、浮世絵で使われる絵の具は紙の表面に留まらず、内部まで染み込み、絵に現れる色は絵の具本来の色ではなく、紙の繊維との融合によって生まれる色なのだそうである。
 また、浮世絵では、歳月と共に絵の具は紙の中で更に落ち着き、作品が創作時よりも更に味わい深いものになっていくという。
 しかも、優れた生漉奉書紙は、年とともに、それなりに年をとって行くという。それは、優れた生漉奉書紙がひとしく備える、品格とでもいうべきもので、その年のとり方は美しく、風格のあるもので、実に立派に年をとっていく。それは古陶磁器などにも通じるものがある。
 その、先代同様、生漉奉書紙漉き一筋に生きて来た、生漉奉書紙の人間国宝 九代 岩野市兵衛氏ご自身の口から、「紙の王者は雁皮紙。気品がある」という言葉が出た時には、岩野市兵衛氏の微塵も驕りのない、余りに真摯で正直なお人柄を垣間見て驚いた。今度、じっくりと奉書紙と雁皮紙を手に取って観賞したいと思っている。
 安達以乍牟氏によると、平安時代の、例えば『桂本』などの『万葉集写本』、或いは日本美術を代表する最も有名な絵巻の一つ、徳川家伝来の『国宝 源氏物語絵巻』などは、雁皮紙が用いられているという。ただし、浮世絵版画には、雁皮紙は硬すぎて向かないのだそうである。
 ところで、心配なことがある。
 それは、岩野市兵衛家でも、先先代の頃までは地元福井の楮を使っていたが、昭和の初め頃から入手困難となり、先代から石川県産の加賀楮を使うようになった。この加賀楮は最高品質のものだったそうで、光沢があり、ふっくらとして、暖かみと気品ある風合いを出す楮だったという。しかし、その加賀楮も栽培者の後継不足で入手出来なくなり、今は茨木産の那須楮(別名 水戸楮)を使っているという。
 しかし、最近、この那須楮の収穫量が極端に落ちているというのである。不作なのではない。金沢美術工芸大学の柳橋眞教授によると、出来は良くても、栽培農家が枝を切らないからなのだそうである(季刊和紙 NO.15 June 1998)。
 楮は、1年生の枝しか使えない。2年生、3年生の枝では使いものにならないのである。今年、1年生の枝を切らないと、来年使える1年生の枝は極端に減少してしまう。
 最近、タイ、ラオス、フィリピンなどからの安い楮の輸入が増大し、国内産の楮栽培が、今、深刻な危機を迎えている。
 殆どの和紙生産者は、今日、原材料にそこまでの品質を求めない。今日の和紙需要の九割以上は、千年などという耐久年数はもちろん、微妙な肌触りや風合い、発色の違いは求めていない。バブル崩壊後、高価な国産原材料を使った高級品では、商売にならないのである。
 実は、これほど常に本物の材料を求め、最高品質の生漉奉書紙つくりに精魂を傾けている岩野市兵衛氏も、灰煮(煮熟のこと/しゃくじゅく:楮皮を柔らかくし、灰汁抜きをするために煮る、和紙制作の初期工程)の灰はソーダ灰を使っている

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「越前和紙に学ぶ伝統の技と魂」生漉奉書紙 人間国宝 岩野市兵衞氏工房訪問

『越前和紙に学ぶ伝統の技と魂』

と き:2007年3月28日(水)
訪問先:福井県越前市 岩野市兵衛氏 生漉奉書紙制作工房
講   師:生漉奉書紙 重要無形文化財保持者 九代 岩野市兵衛氏
     アダチ版画研究所 会長 安達以乍牟氏
 
 新経営研究会の主軸事業「異業種・独自企業研究会」'07年度前期例会の第1回が、3月28日(水)、福井県越前市大滝町の越前生漉奉書紙 人間国宝 岩野市兵衛さんの工房をお訪ねして開催された。岩野さんは越前奉書紙の伝統を引き継ぐ九代目にあたり、先代 八代岩野市兵衛さんの後継者として親子二代にわたり国の無形重要文化財保持者(人間国宝)に認定された方である。
 今回は和紙について造詣が深く、先代岩野市兵衛氏の代から同工房制作の生漉奉書紙を使用され、日本を代表する浮世絵製作の版元である、アダチ版画研究所の安達以乍牟会長にコメンテーターをお願いした。
 工房では奉書紙の制作過程を、岩野さんが実物で説明された。
 岩野さんの奥様が紙漉きを、ご子息が「塵取り」をされているところを拝見させて戴き、岩野さんご自身にも要所で実演戴いた。
 奉書紙制作過程は、およそ以下の通りである。1.煮熟(しゃくじゅく):茨城県産那須楮15Kgを12%のソーダ灰で4時間煮沸後、蓋をして2時間蒸らす。2.塵取り:楮の繊維に付着している傷やゴミを手作業で丁寧に除去する作業。水を流している水路(「川小屋」と称する)での作業。3.叩解(こうかい):欅の板の上にちり取りを済ませた楮繊維の塊を乗せ、樫の棒で叩いて繊維をほぐす。2時間ほど叩き続ける必要があるため、夏などは大変な重労働となる。最近は、この叩解作業の前半1/2を機械の助けを借り、後半重要部分を手作業で行っている。極めて美しいリズムと動作。4.紙出し:楮繊維に含まれる多量の澱粉質や不純物を流水の中で取り除く。小一時間掛かる地道な作業。5.ねり:「のりうつぎ」と「とろろあおい」をブレンドし、その日の紙漉きに最も適した粘度に調整する。これを「ねり」といい、「のりうつぎ」によって優しい粘りが出る。「ねり」の作業は温度によって粘度が変動するので、調整の難しい工程である。この時に、一つは虫が喰わぬため、又一つは奉書紙の柔らかな白色を出すために白土を添加する。6.紙漉き:「簀桁(すけた・紙漉き用の木枠)」を前後に動かして繊維を掬い取る。温度によって粘度が変化し、バッチ式なので繊維の量が段々減ってくるので、均一の厚みで最後まで繊維を漉き取るのは難しい。厚みも百分の1~2ミリの範囲で漉き分ける。岩野市兵衛さんは、学ぶよりも慣れろだという。簀(す)は細い竹ひご製で、一本一本のひごは途中で接いでいるが、竹ひごをハスハスに切ってつなぎ、紙にそれが写らない工夫がされている。このような簀桁を制作出来る職人は、現在国内に2名ほどいるが、一枚の簀桁が12~13万円する。一日頑張っても漉ける紙の数は、最大で200枚程度。7.圧搾:紙床(しと)と呼ばれる漉き上った紙を1枚1枚重ね合わせたものを、てこの原理を使って水分を絞り出す。この行程で、紙厚は圧搾前の1/2になる。8.板張り・乾燥:1枚1枚、雌銀杏の板に広げ、天日または室(むろ)状の乾燥室内でスチーム乾燥機を使ってゆっくり乾燥する。雌銀杏を使うのは、紙の肌のきめ細かさを得るため。天火乾燥の方が奉書紙の風合い、白さが際立ってくる。9.検品:良く仕上がった奉書紙は、光に透かすと「笑う」と九代 岩野さんは言う。
 現場で岩野さんが、6の紙漉きを自ら実際に実演された際、昔から唄い継がれている紙漉きの唄があり、これを聴くために岩野さんの工房に通ってくる人がいるという。参加者のたっての希望で、岩野さんの紙漉き唄を唄いながらの紙漉きの実際に触れさせて戴いた。漉き舟(漉き槽)の中で、チャッポンチャッポンという簀桁の上に水が跳ねる柔らかな音と紙漉き唄のリズムがぴったりと合い、子守唄を聞いているような何とも懐かしく、暖かい歌声と雰囲気に一同感激した。
 工房での見学と実演の後、越前和紙の里にある「卯立(うだつ)の工芸館」に移動し、岩野さんの奉書紙の制作過程を改めてビデオで通して見せて戴いた後、安達さんのお話を伺い、質疑応答を行った。
 安達さんからは、岩野さんの奉書に対するご意見にとどまらず、浮世絵用の奉書紙や雁皮紙など、数々の和紙の種類や歴史・特徴などについて、実物を見せて戴いてのお話があった。 
 岩野さんの紙が何故良いのかを説明するのは非常に難しいが、越前和紙は発色が他の産地の和紙と格段に違い、いわば和紙の基準となるもの。奉書紙ばかりでなく、越前和紙はすべての紙でレベルが高い。先代から聞いた話では、越前奉書紙を支える一つは‘水’、また乾燥に使う雌銀杏の板にもあるようで、神社などで雌銀杏の大木が倒れたと聞けば、飛んでいって入手したものだ、とのことである。安達さんがわざわざ持参された楮・雁皮などを原料とした様々な紙や、どうさ引き(礬水と書いて「どうさ」。墨やインキの滲み止めのため、明礬(ミョウバン)と膠(ニカワ)の混合液を薄く塗布する作業行程)による紙質の変化が、実際に実物に触れ、初めて理解出来た。
 岩野さんのお話では、奉書紙は越前和紙千数百年の源流に当り、そこから時代の要求に応じて、様々な和紙が生まれていったという。
 そのようなことで、和紙の源流ともいうべき生漉奉書紙の基本を高度に体得、体現出来、伝承出来る者として、重要無形文化財保持者の認定を受けたと理解している。
 先代の父親からは、生漉奉書紙だけでは良い生活も期待出来ず、そのために浮気をしないようにということであろう、よそを見るなとよく言われた、とのことであった。
 手漉き和紙の制作者は、明治の頃は国内7万軒といわれたが、今では300軒になってしまった。しかし越前和紙は昔も今も40軒。時代は変わっても本当に良い物は残っていくことが再確認され、心強く、かつ嬉しく思った次第である。
(異業種・独自企業研究会コーディネーター:相馬和彦)

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タゴール追想

 「日本が自分の偉大さを認識することを怠ろうとする、正に差し迫った危険にあるかに見える今日、その日本に、日本は一つの完全な形式をもった文化を生んで来たのであり、美の中に真理を、真理の中に美を見抜く視覚を発展させて来た、そのことを再び思い起こさせることは、私のような外来者の責任であると思います。

 日本は、明確で、完全な何ものかを樹立して来たのです。それが何であるかは、あなたがたご自身よりも、外国人にとって、もっと容易に知ることが出来るのであります。

 それは紛れもなく、全人類にとって貴重なものです。それは、多くの民族の中で日本だけが、単なる適応の力からではなく、その内面の魂の底から生み出して来たものなのです。」

 これは、1916年、インドの詩聖 ラビンドラナート タゴールが初めての日本訪問の折、慶応義塾大学で「日本の精神」と題して行った講演の抜粋である。

 このタゴールの言葉に私が初めて出会ったのは、1970年、川端康成の著「美の存在と発見(※1)」においてであった。

 そして1929年、タゴールは、3回目の来日の折、日印協会での講演において、当時のベンガルの若い世代に計り知れない希望と覚醒を与えた偉大な独創的人物として、岡倉天心の名を改めて日本の聴衆に紹介し、‘天心がべンガルの若い世代の心深くに刻みつけたメッセージ’を伝えたのであった。

 「すべての民族は、その民族自身を世界に現わす義務をもっています。何も現わさないということは民族的な罪悪といってもよく、死よりも悪いことであって、人類の歴史において許されないことであります。すべての民族は、彼らの中にある最上のものを世界に向けて表出しなければなりません。これは又、その民族の富である高潔の魂が、目の前の部分的な必要を超えて、他の世界へ、自国の文化の精神への招待状を送る責任を、自ら認める豊かさなのであります。(※2)」

 これは、当時、民族の誇りと自信を失いかけていたベンガルの若い世代の精神に、天心が渾身の思いを籠めて訴えた言葉だったそうである。

 われわれは、今、未曾有のグローバル化の流れの真只中にいる。

 このグローバル化の時代、われわれが自らを見失わず、独自の存在価値と今後の歩むべき道を切り開き、真に世界に貢献出来る道を求める拠り所となるものは、このそれぞれの国と民族が、それぞれの歴史と伝統の中で生み出し、発展させて来た、それぞれの精神と叡智をおいてない筈である。

 この多様な国々と民族の文化と精神が、いつか、それぞれに世界に輝かしく発揚し、掛け替えのない全人類共有の財産として自覚され、互いに影響・刺激し合い、共存・共創し合える日を築き上げる、人類の可能性と知恵を信じたい。

 私たちは、今、かつて天心がベンガルの若い世代に訴えた渾身の思いを、私たち自身へのメッセージとして受け止め、噛み締めてみるべき時に来ているのではないか。

 この熾烈なグローバル競争という現実の下で、ややもすると、すべてに経済合理性という意識が優先されがちな今日、この掛け替えのない民族の魂と智慧、高潔の精神を、われわれが置き忘れていないことを祈るものである。

(※1)1970 年 毎日新聞社刊 P36、

    タゴール著作集 第8巻 482頁「日本の精神 高良とみ訳」第三文明社刊

(※2)川端康成著「美の存在と発見 P34」、

    タゴール著作集 第8巻 489頁「東洋文化と日本の使命 高良とみ訳」第三文明社刊

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