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新経営研究会

技術を誕生させた材料、進歩させた材料(新日本製鐵)

と き :2008年3月19日
会 場 :森戸記念会館
ご講演 :新日本製鐵 (株) 技術開発本部 鋼材研究所 鋼材第二研究部長 
     主任研究員 吉江淳彦氏
コーディネーター:LCA大学院大学 副学長 森谷正規

 

 21世紀フォーラムの2007年度後期 最終回は、新日本製鉄の吉江淳彦主幹研究員(技術開発本部 鋼材研究所 鋼材第二研究部長)に、「技術を誕生させた材料、進歩させた材料」と題するお話をいただいた。
 鉄鋼は、最も古い材料の一つであるが、なおも大きな技術進歩を続けている。それは、鋼材の中にさまざまな物質を加えることにより、より高度な性能、高度な機能を持つ新材料を創り出すことができるからであり、また社会が新しい材料を次々に要求することによって鋼材の進歩を促すからである。その鉄鋼の技術進展に見事に応えてきたのが、日本の鉄鋼業であり、新日本製鉄はその先頭に立つものだ。
 吉江さんの話の主題は、酸素であった。FeOである鉄鉱石には大量の酸素が含まれている。製鉄はその酸素をコークスの燃焼によって除去することなのだが、作った鋼材の中には、AlやMgなどとの酸化化合物として残ることになる。この介在物が、種々の問題を引き起こす。したがって、介在物を取り除くよう大きな努力を重ねる。しかし、徹底的に無くそうとしても、限界があり、ゼロにはできない。そこで、介在物が少々あっても問題を生じないような方法を考えることになった。つまり、酸素となんとか協調するのであり、それによって成果を上げた。さらに、邪魔なはずの酸素を活用する方法も考え出した。まさしく、鉄の中の含有物によって、鋼材にはさまざまな可能性が生じることを如実に示すお話であった。 
   最初のテーマは、自動車のタイヤに用いられているスチールコードであった。0、1-0、2ミリの非常に細い線にするのだが、細く引く工程でしばしば切れるという問題があった。それは、酸素化合物が介在するからであり、その個所で切れるのである。そこで、介在物を極力減らすよう努めたが、10ppmまで減らしても、なおも断線が生じる。これは、東京ドームにボール一個ほどのきわめて少ない量だ。
 そこで、断線が生じる状況を深く分析して、介在物が低い融点のものであれば切れにくいことを発見して、介在物の低融点化に努めた。それによって、断線をほぼゼロにすることに成功したのである。つまり酸素との協調である。

 いまスチールコードは各方面で広く利用されるようになり、最先端のものとしてはシリコンウエファーの切断に用いられるが、それは0、14ミリである。放電加工にも利用されているが、もっとも細いのはアユ釣り用の糸であり、0、016ミリのものを7本束ねている。
次に、吊り橋に用いるワイヤの話があった。これは海上に設置するために、強力な錆止めが必要であり、亜鉛メッキをしなければならないが、メッキ作業は高温で行うために組織が崩壊して、Cの層が崩れて強度が落ちる。そこで、3D-AP(アトム・プローブ)装置を用いて、原子レベルで分析して、メッキをしてもCが抜けないような方策を考え出して、ワイヤの強度を保つのに成功した。鉄鋼の開発では、原子レベルのきわめて高度な分析機器を駆使しているのである。
こうして吊り橋用のワイヤの強度を上げることができて、明石大橋では、ワイヤを束ねて作るロープを従来のものでは4本必要であったのを、2本に減らすことができた。それによって、5カ月ほど工期が短縮され、240億円も工費を削減することができたという。その明石大橋の壮大な工事を数多くのスライドで詳しく説明された。
 酸素を活用したのは、大入力溶接である。溶接は、その個所がきわめて高温になるので、組織が壊れて、強度が落ちる問題が生じる。そこで、船舶などは、小さな入力で少しずつ溶接し、それを何度も重ねて仕上げるのだが、その手間が大きい。
   大入力の溶接ができれば、一度で溶接を終えることができるのであり、その可能性を探ったのだが、酸化物を用いるアイデアが生まれた。加えた熱によって結晶粒が成長して組織が変わるのだが、その成長を酸化物によって抑えようというのである。鋼材の中に数10から数100ナノメートルのきわめて微細な酸化物を無数に分散させて、目的を達することができた。これはまさしくナノテクノロジーであり、材料においてはナノテクがすでに実用化している。
 このような話を終えて、ディスカッションが盛んに行われたが、鉄鋼のユーザーや分析機器のメーカーとの密な協力関係が質疑で明らかになり関心を引いた。吉江さんは、日本では自動車産業などユーザーがとても強力であるから、鉄鋼メーカーも強く刺激されて、技術開発が進むと協調された。この企業間の連携が強いことこそが、日本の産業、企業の持つ強みである。この強みをこれから大いに活かしていかねばならないと、深く考えさせられた。

(2008.3.25 森谷正規)

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たたら操業見学会

と   き : 2008年2月8日(金)~9日(土)
ご 講 演 : (株)安来製作所 代表取締役社長 岡田 重康氏
      和鋼博物館館長 八十至雄氏
訪 問 先 : 奥出雲の鳥上木炭銑工場

 2008年2月8日(金)~9日(土)、新経営研究会では、わが国における‘技術・製品開発’、‘ものづくり’の第一線で指導的立場にある有志25名が相集い、(財)日本美術刀剣保存協会様、日立金属(株)様のご高配を得て、「たたら操業見学会」を催した。これは、今日のわが国の‘技術・製品開発’と‘ものづくり’の在り方をここで一度本質的に問い直し、原点に立ち返って今後の方向を求めようとしたものである。

 2月8日(金)12時、安来市の「和鋼博物館」に集合し、館長 八十至雄氏より「日本古来の製鉄法 たたら製鐵」と題するご講演を伺い、同館見学の後、奥出雲の鳥上木炭銑工場にて(株)安来製作所社長 岡田重康氏より「たたら製鐵の実際」についてご講演いただき、15:45~16:30、 「たたら操業の大詰め」 を見学させていただいた。
 翌2月9日(土)は早朝3時30分起床、4時過ぎに玉造温泉宿を専用バスで出発し、05:20~07:00、たたら操業のクライマックス 「釜崩し」 を見学させていただいた。

 それは、古来から受け継がれる‘神事’に立ち会っているような、正に魂を揺さぶられる感動であった。

 そこには、私達が近代化の過程でいつか切り捨て、ふるい落として来た、若しかしたらもはやそれは取り返しがつかないかも知れない、余りに大きな、掛け替えのないもので溢れているように思えてならなかった。

 「たたら製鉄」は砂鉄を原料とした日本古来の製鉄法で、今回訪問させていただいた奥出雲の「鳥上木炭銑工場」は、現在たたら製鉄が行われている世界唯一の操業所である。

 日本刀は、この「たたら製鉄」によって生産された「和鋼」から取り出される良質の玉鋼を素材としてつくられる。

 この「たたら製鉄」は、明治初期頃に最盛期を迎えた日本古来の製鉄法だったが、西洋より高炉が移入されて生産効率で太刀打ち出来ず、一旦は途絶えかかっていたのを、(財)日本美術刀剣保存協会(略称:日刀保)が、刀剣類の素材である和鋼の安定供給を目的に復元計画し、日立金属(株)の協力を得て復活させたものである。

 その至難の復活を可能にしたのは、往時の村下(たたら操業の技師長に当る方)安部由蔵氏と久村勧治氏が健在であったこと、又、(株)鳥上木炭銑工場に往時の高殿と炉床の遺構が残存管理され、炉の詳細図面が保存されていたことに拠るという。

 たたら操業は村下の勘で全てが決まる。

砂鉄と木炭はほぼ30分おきに投入されるが、その投入すべき砂鉄と墨の量、タイミングは、村下の時々刻々に変化する炎の色の変化の判断によって決まるという。1回の操業で使用される砂鉄は8トン、木炭は13トン。2月8日(金)、3昼夜、約70時間に及ぶ過酷な作業の最後の大詰めを見学させていただいた。村下はノロの出方でケラの成長を判断する。.
 2月9日(土)、たたら操業のクライマックス「釜崩し」を見学。炉底一杯にケラと呼ばれる鋼塊が出来る。炉の側壁はこれ以上耐えられない程に侵食されて薄くなっており、村下の判断で操業を停止する。
 炉を壊し、真っ赤に焼けた炭と渧を掻き出し、高熱と粉塵の中、轟々と豪快な火花を散らして真っ赤なケラが顔を出す。この約3トンのケラから1トン程、約1/3の玉鋼が取れ、日本刀の材料となる。

 木原村下の話によると、今回のケラは厚みも形も良く、たたら操業は成功だったということだった。

 この「たたら製鉄」によって高純度の鉄が生まれる仕組みはまだ科学的に解明されていない。
 しかし、この 「たたらの地下構造」 と 「築炉技術」 に表れる先人の知恵と工夫には、目を見張るものがある。

 八十和鋼博物館長の話によると、たたら1回の操業に必要な炭の量は約13トン。これを森林面積に換算すると1ヘクタールとなり、たたら操業が盛んであった江戸後期~明治初期の年間操業回数はおよそ60回、しかも炭焼きに適した樹齢は30~50年というのであるから、たたら操業1ケ所当り約1.800ヘクタールの森林面積を必要とすることになる。
 又、今日の鉄の需要をまかない切れる程の生産性は、この「たたら製鉄」には残念ながらない。
 
 しかし、人類の未来社会に、今、計り知れない可能性を開こうとしている今日の科学技術の発展は、一方で地球環境やエネルギー問題、そして私たち人間の心とか文化といった、人類の未来に関わる根本問題と直面し、今日様々な矛盾と危機を露呈し始めている。

 そして、生命感、実体感の喪失感と、それらに対する癒し難い深い渇き…、今、近代に対する深い疑問が台頭しつつあるように思う。

 この近代化の過程で私達がいつか切り捨て、振るい落として来た、余りに大きく、掛け替えのなかったものが、この‘たたら操業’の中にある。
 この‘たたら操業’に横溢する精神と思想、全人間的営みを、再び現代に回復させたいものである。私は、その人間の努力と可能性を信じたい。(新経営研究会 代表 松尾 隆)

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R&Dが先導する‘味の素ルネッサンス’、味の素の生産革新

と   き : 2008年1月22日
訪 問 先 : 味の素(株)川崎事業所 訪問
講   師 : 技術特別顧問      西山 徹氏
      代表取締役 副社長 戸坂 修氏   
コーディネーター: 相馬和彦氏(元帝人(株)取締役 研究部門長)

 平成19年度最終回は、味の素(株)川崎事業所を訪問した。まず西山徹技術特別顧問および戸坂修代表取締役副社長の講演を伺った後、食品グローバル開発センター(FGC)と川崎工場内を見学した。講演会場のFGCは昨年11月に完成したばかりの真新しいセンターで、4年前にお訪ねした際にはまだ存在しておらず、味の素が食品分野へ注力していることが伺われた。また西山徹技術特別顧問および戸坂修代表取締役副社長の講演は、研究開発および製造という味の素の技術を支える二本柱について、過去の歴史と実績を踏まえつつ将来の進むべき道筋を明示する内容であり、技術者に対する重要な示唆に富んでいて、19年度の最後を飾るに相応しい内容であった。また味の素は来年創業100年を迎えるとのことであり、次の100年を目指す技術者の意気込みを感じることが出来た。
   西山技術特別顧問は「R&Dが先導する味の素ルネッサンス」と題し、創業の原点に戻って「技を作り」、「業を起す」ことを再び目指す活動について講演した。味の素の創業は科学者である池田菊苗博士と事業家である鈴木三郎助の出会いが端緒である。池田博士は、三宅秀の講演議事録に記載されていた「佳味は消化を促進す」という文言に啓発され、国民の栄養不足を解消したいという思いを実現するための実験を行い、昆布の旨みであるグルタミン酸ナトリウムを発見して1908年に特許を取得した。鈴木三郎助はこれに関連する技術情報を収集して分析するとともに、グルタミン酸ナトリウム特許を池田博士と共有し、更には現代で言うfeasibility studyを行って事業性を検討した結果、1909年に事業化を決断するに至った。創業時期で注目すべきは、企業としての鈴木商店を1917年に創立したが、その年にすでにニューヨーク事業所を開設していることである。国際化やグローバル化という言葉すら生まれていなかった創業時代に、すでに海外へ目を向けていたことは、現在の味の素に国際的な活動の原点を見る思いがする。日本の企業でグローバル展開が旨く行っている企業の中に、創業時代からすでに世界へ目を向けている企業が多いことはもっと注目してよい。グローバル化という言葉を唱える前に、こういう企業にはグローバルな活動が既に遺伝子として組み込まれているのであろう。事実味の素では研究で新製品を開発すると、「この商品はいつから世界で販売しようか」という問いが誰からということもなく、極自然に出てくるということからもそれが伺える。
   味の素の事業は、大きく分けると食品事業、アミノ酸事業、医薬事業と一見して関連がないと思われる事業群から成り立っているが、これらは技術的には密接な繋がりによって産み出され発展してきたものである。旨み成分であるグルタミン酸ナトリウムを製造するためにデンプンを加水分解するが、その際に副産物として油脂や味液が得られ、これらを有効活用してマヨネーズ、スープなどの食品事業へと展開した。またグルタミン酸ナトリウム以外の各種アミノ酸も副産物として得られるので、これらをアミノ酸バルクとして飼料用アミノ酸あるいは医薬用アミノ酸へと発展させた。デンプンの加水分解には食塩の電解で得た塩酸を使用するが、塩酸・苛性ソーダのような副原料から化成品へ、更には化粧品や甘味料へと発展した。従って現在の食品・アミノ酸・医薬の三事業は、すべて旨み成分の製造に関連して歴史的に派生してきたものである。一言で言うと「アミノ酸の持つポテンシャルの顕在化」であり、これが次なる味の素ルネッサンスの基本に繋がって行く。
   味の素の技術開発は、植物蛋白から各種アミノ酸を抽出する技術、腐食性の塩酸を工業的に取り扱う技術など創業時代から世界に前例のない技術開発に挑戦する必要があったため、R&Dが技術と事業を支えるという気風・風土が育まれ、それがDNAとなった。
   創業100年を迎えて次の100年へ挑戦するため、Advance10を掲げ、ライフサイエンスを基盤とするライフケアカンパニーへと変身することを目標にしている。そのためには味の素ルネッサンスとして、創業の原点に戻り、「技を作る」こと、「業を起す」ことに再び挑戦する。「技を作る」とは、グルタミン酸ナトリウムの新しい生理活性機能を発見することであり、「業を起す」とはそこから世界的な事業を創出することである。基礎研は今までは製品の安全性という守りの研究が中心であったが、これからは有用性という攻めの研究に注力する。
一例を挙げると、グルタミン酸ナトリウムのレセプターが従来の舌以外にも胃にも存在することが発見され、レセプターからの信号が脳に伝わることが分かった。グルタミン酸ナトリウムを摂取することにより、胃液の分泌が活発になって分泌過少症の患者さんでも胃液分泌が回復するばかりでなく、脳の活動が刺激されるため、高齢者の意識レベルが向上することも分かってきた。これはライフケアに繋がる可能性がある。
食文化は民族固有の文化として世界でも多様な文化が発展してきたが、グルタミン酸ナトリウムはその壁を越えて世界に浸透しつつあり、日本の旨みという食文化を世界の食文化に発展させて行くことがこれからの仕事である。
戸坂代表取締役副社長は「味の素における生産革新」について、4年前に異業種研究会で講演された九州工場の建て直しを踏まえ、その後の発展振りを併せて講演した。味の素の工場は現時点で世界16カ国、105工場に及んでおり、競合相手もグローバルとなるため、この競争に打ち勝って行くことが生産に求められている。
1999年頃よりグローバル競争が激化し、世界一のコスト競争力と供給力の確立が求められるようになった。味の素ではそれに対応するため、世界各地へ技術移転を行ったが、結果として国内工場の競争力の低下を招いてしまった。九州工場は1962年に発酵法によるアミノ酸製造のために設立されたが、2001年に戸坂さんが工場長として赴任した際にはコスト競争力を失っており、2003年以降の生産計画がなく閉鎖寸前の状態となっていた。
しかし現場に赴任し従業員の将来を考えると、工場を閉鎖するくらいならば死に物狂いで再生に挑戦すべきだと考えるに至り、その旨を経営会議に提案した。再生のためには、コストを1/2にすると同時に、成長のために既存製品の増産と新製品・新事業の開発を並行して実施するという計画を立案した。将来への希望がなければ、現時点で厳しい対応は取れないと考えたからである。人員を削減出来れば、その余裕人員を成長へまわすことも可能となる。幸いにもこの提案は、経営会議で2年の期限付きで了承されたばかりでなく、実現への激励を受けた。味の素には一旦経営会議で決定されたことであっても、下からそれに反対の提案をしても、その提案を正面から議論して受け入れる風土があったことも幸いした。
計画実現のためにまず実施したことは、工場内に戦略特命チームを結成したことである。各部署に最も精通しているベストメンバーを選び、工場長直属とした。このチームで2004年4月を目標に、人員を232人から110人に削減するための実施計画を作成した。また実施するうえのでスタンスとして、ゼロベースの無駄取りおよび安易なアウトソーシングの排除を原則とした。また技術的な対策としては、トップバイオ21プロジェクトを立ち上げ、発酵効率を2倍に引き上げることと、新製品の開発、例えば特保認定を目指したカルバイタル(カルシュウムの吸収向上剤)など新製品開発を同時に実行した。
累計の定年退職者が90名居たこともあって人員削減は実現し、同時にコスト1/2も可能となった。収益は当初2倍を目標としたが、結果は3倍を達成し、経営会議との約束も果たすことが出来た。またこの努力を通じ無形の成果として、①従業員活動が受身から提案型へ変わったこと、②意識の変化が明確に現れたこと、③トップとの約束を果たした満足感、を得ることが出来た。
九州工場で困難な目標に挑戦しそれを実現させたことで、次いで最も歴史のある川崎工場の再生を任された。川崎工場は従業員も多く、かつ食品の生産品目も多岐に渡るため、課題は九州工場よりも複雑であった。そこで従業員を594人から250人へ削減し、固定費は1/2へ、在庫は1/10へ減らすことを目標とした。スローガンは”lean & agile”で、受注生産を目指した。
結果は、固定費55%、設備費40%、人員312人を削減し、在庫は1/5とほとんどの目標を実現させることが出来た。九州工場、川崎工場で得た経験と智慧を、次に他工場への展開を図っている。まず国内では味の素パッケージでパートを中心に展開し、その後クノール食品、味の素メディカへと広げた。海外ではタイ、フランスを始め、国内38工場、海外35工場へと展開している。海外ではグループリーダー会議を開き、エリア毎の展開を行っている。
今後はAdvance10で売上15,000億円、営業利益1,500億円、営業利益率10%を目標に更なる進歩を目指しているが、その時の精神としては、「モノづくりはヒトづくり」、「公平・透明・公明・簡素」をモットーとしている。更にWin Projectとして、国内工場での革新をグローバル展開し、value innovationを継続的に実施して行く。
経営方針として、特定商品でグローバルNo.1を目指している企業では、どうしても独創的な新製品は社内抵抗のために実現しにくい企業風土となり勝ちである。味の素はグルタミン酸ナトリウムでNo.1を維持しながら、同時に様々な新製品を継続的に創出出来ている。どうしてそれが可能かについては、大いに関心を持たれるところであるが、これに対して講演者からは以下のような回答があった。味の素では創業時から、①新しい価値を創造することを重視する、②始めからグローバル展開する視点がある、③人を大切にする(レイオフはしない)こと、がその原点にあり、そのため挑戦するDNAが残って来たからとのことであった。お二人の講演内容を振り返って見ると、この原点が至るところに顔を出していることが分かり、講演の意味するところに一層理解が深まった。来年以降の新しい100年での更なる発展が期待される。
講演終了後、FGCと工場見学を行った。FGCでは、会議・コミュニケーションが出来る空間(イノベーションスペース)および客との対話スペースの存在が印象的であった。FGCの設計に当たっては、デザイナーに設計を任せるのではなく、従業員から代表が出てどういうスペースにするかを2年半かけて議論し纏めあげたとのことで、企業内オフィスの設計方針としてはかなり珍しい例だと思われる。その後「ほんだし」および「Cook Do」の製造工程を見学し、「ほんだし」を賞味する機会を得た。
(文責 相馬和彦)

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PostCRTフルカラー大画面 有機ELディスプレイ開発への夢と苦闘

と き :2008年1月18日
会 場 :虎ノ門パストラル
ご講演 :ソニー (株)ディスプレイデバイス開発本部長 占部哲夫氏
コーディネーター:LCA大学院大学 副学長 森谷正規氏
 

 「21世紀フォーラム」の第5回は、いま注目の有機ELテレビについてであり、世界で始めて実用化、市販を開始したソニーのディスプレイデバイス開発本部長である占部哲夫さんにお話をいただいた。「Post CRT フルカラー大画面有機ELディスプレイ開発への夢と苦闘」と題するものである。
 まず、ソニーにおける占部さんの入社以来の仕事から、話が始まった。74年の入社であるが、最初はソニーのオリジナル技術であるトリニトロンテレビ
の開発に従事した。その後、液晶ディスプレイ開発に移って、長年にわたってその実用化へ向けた開発努力を行ってきた。その間、VECTRON、カムコーダー、リアプロジェクション・テレビなどさまざまな機器のディスプレイへの応用を進めてきて成果を上げた。だが、液晶の大型テレビへの応用に進むことはできなかった。
 ところが、1998年に突然、有機ELの開発リーダーを命じられた。液晶ビジネスの拡大に全力を投じていたのだが、上司の厳命で不承不承だが引き受けざるを得なかった。液晶のリーダーとの掛け持ちであり猛烈に忙しく、有機EL部門では、イライラのはけ口で怒鳴ることが多くて、部下に反抗されたこともあったという。
ディスプレイが新たな展開を始める中で、ソニーは新たなディスプレイとしては有機ELに力を注ぐ方針を定めて、2000年1月に有機EL開発部を新設し、占部さんは専任になり開発部のリーダーとして全力を注ぐことになった。そこで、今度こそは取り組むディスプレイをテレビに向けようと心に決めた。当時はすでに有機ELの本格的な開発を多くの企業が開始しており、ソニーは開発企業としてまわりに認知されてはいなかった。そこで、アッと驚かす成果を上げたいと、「extroadinary」を目指すのだと、部の全員に檄を飛ばした。
   他社を抜くためには、他とは異なることをなすべきと、画像を出す機構を他社がやっているボトム・エミッションではなく、トップ・エミッションに変えた。これは、性能の面で有利だが、技術的にかなり難しいとされていた方式である。
2000年の春には早くも、ディスプレイの試作に成功した。その試作品で見た花火の映像の美しさに圧倒された。そこで、有機EL技術の素晴らしさと大きな可能性を信じることができた。これまで長年にわたって携わってきた液晶ディスプレイは、当初は画質が極めて悪く、非常に長い年月をかけて徐々に画質を向上させてきたのだが、有機ELは、最初から美しい画面を出すことができたのだ。また、有機ELは、All Solid State Deviceであるのも、大きな利点であると考えることができた。CRTの電子銃、プラズマの放電管などが要らないのである。構造は原理的にシンプルであり、コストなどの優位性があると信じた。
 占部さんは早くディスプレイを作りたいと願ったのだが、そのためには巨額の費用を要する製造装置を入れねばならない。当時の上司である中村末広さんに購入を申し出たが、有機ELにかける気になっていた中村さんは、その工面をどうにかつけた。その代わりに、年内に13インチのディスプレイを作れと難題をだした。そこで、装置メーカーに猛烈にはっぱをかけて納入を急がせ、納入後の立ち上げは二交替制で、一日24時間を立ち上げの作業にかけることにした。これは人事部から無茶なことをすると苦情がくる始末であった。その猛烈な努力で、2000年の12月に開かれた社内の技術交換会に作り上げたディスプレイを出すことができて多くの人に強い関心を抱かせ、翌年の2月には新聞発表をして大いに注目された。2001年には、CEATECでも発表して大きな話題になった。
だが、その後も開発の苦労は続いた。まずは小型のものから実用化の可能性が出て、PDAへの採用が検討されたが、進まなかった。超高級製品であるクリエ・シリーズへの応用は、このシリーズが不振で中止になった。ウォークマンに小さなディスプレイとして採用され、数はかなり出たが、生産量は大きくはなかった。
 そして、ようやく2007年に11型テレビ「XEL-1」をいよいよ市販するまでに漕ぎつけた。期待の有機ELが新しいテレビとして登場してきたのである。この有望とされる革新技術が多くの企業の懸命な開発にもかかわらずなかなか伸びない中で、テレビの実用化は強く注目されることになった。今回の会場には、その市販のテレビを持ち込んで映し出したが、画像の鮮やかさ、美しさには、目を見張るものがある。コストはまだ相当に大きく、希望小売価格は20万円と高いのだが、長期的には先行する液晶やプラズマと戦っていくことができるのだろうと大きな可能性を感じさせた。
 占部さんの強いリーダーシップで困難な革新技術開発に見事に成功したのだが、勝利の方程式を占部さんは次の三つの項目で示した。1)部内では、できる者をリーダーにする、2)協力を願う部門のトップに食い込んで、十分な協力を得る、3)私が本気になる。
占部さんは、まさしく信念の人である。有機ELという革新技術の大いなる可能性を信じ込んで、信じきって、情熱をかけて開発に邁進してきた。その信念が上司を動かし、部下を熱中させて、開発を成功に導いたのである。困難な技術開発において、開発リーダーが強固な信念を持つことがいかに重要であるかを強く認識させられた。

(2008年2月 森谷政規)

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アイシングループの商品変遷とそれを支える‘ものづくり’

と   き : 2007年12月11日
訪 問 先 : アイシン精機(株)本社工場 訪問
講   師 : 取締役 副社長  林  稔氏
コーディネーター:  相馬和彦氏(元帝人(株)取締役 研究部門長)

 平成19年度12月に開催された第五回は、愛知県刈谷市にあるアイシン精機本社工場を訪問した。アイシン精機はトランスミッション、ブレーキ、ボディなどの主要な自動車部品製造で有名であるが、同時にハイエンド向きのスピーカーや高級ベッドなどもグループ内で製造しており、多様な製品群を生み出した企業文化に大いに関心が持たれた。
開催に当たり、最初に山内康仁代表取締役社長より歓迎の挨拶があり、引き続きコムセンターおよびブレーキ部品工場の見学に移った。コムセンターにはアイシン精機の歴史および主要な製品群が展示されていて、企業活動全般をまず知ることが出来るよう配慮されていた。1943年に航空機用発動機を製作するため、東海飛行機株式会社が設立されたのがアイシン精機の出発であるが、戦後を迎えて航空機用発動機からミシンや自動車部品生産に転換し、1949年には愛知工業株式会社となった。この愛知工業株式会社と新川工業株式会社が合併し、1965年にアイシン精機が設立された。こういう会社の設立とその後の発展過程において多くの関連企業が生まれたたことが、現在のアイシングループの多様な製品群と企業文化に影響していることは、その後の見学や講演の中で具体的に示された。
アイシン精機の主要製品はボディ関連(2006年の売上比率38.7%)、ドライブトレイン関連(同18.0%)、ブレーキおよびシャシー関連(同17.2%)、エンジン関連(同15.1%)である。住生活関連(同5.2%)ではフィット感の高いベッド、福祉関連では介護用別途や軽量電動車椅子などを販売している。また新規事業としては、超伝導モーター、フェムト秒ファイバーレーザー、遺伝子検出同定システムなどを手掛けている。
次いで関連会社であるアイシン高丘で製造している高級スピーカー“TAOC”ブランドのFC5000を試聴した。ジャズとオーケストラの演奏を短時間聴いた範囲では、音の立ち上がりと切れが良いという印象を得た。スピーカーは1983年に発売されたが、元々は制振鋳物として開発されたハイカーボン鋳鉄を、フレームからスピーカー本体へと進化させたものである。国内および海外で音響関連の賞を得ていることを納得させる音質であった。
工場見学ではブレーキ部品の製造および組み立て工程を見学したが、現場に足を踏み入れた第一印象は、工場の床が実に綺麗に掃除されており、また数多くの部品や仕掛品がキチンと整理・整頓されていることであった。1997年に火災で工場停止を経験したことがあり、そのため周辺環境と火災への配慮がなされている。工場内には72度Cで稼動する自動シャッターが装備され、初期消火訓練を3~4ヶ月に一回は実施している。本工場では様々なブレーキ関連製品が作られているが、ブレーキ・マスター・シリンダー(BMC)は32.6万個/月、キャリパーは32.2万個/月、パーキング・ブレーキ(PKB)は28.2万個/月生産されている。
二階では切削・鋳造工程を行っているが、自動化は意図的に80%程度に止め、作業者の訓練のために手動工程を残している。鋳造品の検査には、レーザーによる自動検査工程を採用したが、その結果生産性指数は100から160に向上し、不良品の後工程への流失指数は100からゼロへと減少した。また切削・研磨工程は合理化および内製化を積極的に実施しており、特に工具・工程の改良に力を入れている。改良した切削工具を見せてもらったが、溝のついた中空部分を削り出すための自社製中繰り刃具に、削り屑がうまく排出されるような工夫がされていることに感心した。
またアルミ鋳造工程では、工程解析の結果により、鋳造機が75%の時間はアイドリングしていることを見つけ、鋳型を連続的に回すことを含めて鋳造工程全体を見直すことにより、設備数を47台から13台に、作業者を3名から1名へと大幅な合理化を達成した。同行していた林常勤監査役のコメントでは、技術屋と現場が一体となった共同作業で達成出来たとのことであり、日本の製造業が最も強い現場・現物重視の好例を拝見出来た。
コムセンターの講演会場に戻り、林稔常勤監査役(前取締役 副社長)より「アイシングループの商品変遷とそれを支えるものづくり」と題する講演をいただいた。
アイシン精機はトヨタ自動車を中心とするトヨタグループ15社に含まれ、トヨタ向けの売上が連結で70%と高い。06年度でアイシン精機単独での売上は8,600億円、従業員11,700人であるが、アイシングループとしての売上は2.7兆円、従業員は66,000人に達する。グループは国内67社、海外78社の合計145社あり、基本的には分社化経営を行っている。グループとしての06年度事業別売上比率は、ドライブとレイン関連42.6%、ブレーキ及びシャシー関連19.7%、ボディ関連18.2%、エンジン関連9.4%、情報関連他5.9%、住生活関連機器及びその他4.2%である。
部品は自社でテストしてから納める姿勢を当初から保持しており、1970年にはテストコースを藤岡に、1992年には豊頃(北海道)とフォーラビル(米国)に設置した。またマニュアルトランスミッションが成長鈍化した際には、ここを別会社化して独立採算を重視した結果、技術革新が生まれ、ポルシェカレラ911に採用されるレベルに到達した。欧州では未だにマニュアルが好まれている。オートマチックの技術ではオーバードライブ付き4速AT、6速AT、8速ATなどで世界最初の製品化に成功した。その他には、運転支援システムとして、走行、駐車、視覚、安全支援などのシステムで、世界初の商品化に成功した事例がいくつもある。新規事業としては、フェムト秒ファイバーレーザーが、カール・ツァイス社の視力矯正機に採用され、VisuMaxという名称で商品化されている。シーズ研究にも力をいれており、バイオ関連では人工心臓、遺伝子解析など、エネルギー関連ではスターリングエンジン、常温核融合など、環境関連では燃料電池、極低温冷凍機などを実施している。
これからの事業を取り巻く環境変化としては、まず(1)市場変化への対応がある。先進国での普及は伸びず、BRICSでは成長が継続するが、労務費・エネルギーコストの安い国での生産が進展する中で、日本でのものづくりをどうするかを迫られている。(2)グローバルカーへの対応。インドのTataは66万円、ルノーDacciaは87万円、ブラジルのVWは138万円など低コスト車が出ている。これにどう対処して行くか。(3)開発スピード短縮への対応。開発期間は従来24ヶ月と言われていたが、必要なプロセスを継時的ではなく同時進行させることにより、6~8ヶ月に短縮させて開発競争力を保持する。(4)部品業界の再編への対応。(1)~(3)に対応するために、部品業界も世界的な再編が避けられない。

アイシンではこれらの変化に対応するため、ものづくり改革を進めている。競争力(技術開発力と時間競争力)を縦軸に、革新(開発と生産)を横軸としたマトリックスで区分される4つ分野を縦横に繋げる手法を活用しつつ、総てを支える人材育成を基本と位置付けている。小型化、低コスト化の一例を挙げれば、ABSは過去20年間で容積は1/8、重量は1/6、売値は1/5となっている。
開発と生産を繋げる革新を達成するための手法としては、SE活動とシンプルスリムがある。SE活動は次世代モデル、次々世代モデルまで考えながら、迅速に開発する活動で、以下の様な思考過程を辿る活動である。

   勝てる構造図 ← 勝てる目標値 ← 競合品のベンチマーク
      ↑
   アイデア創出 ⇔ 生産技術チーム 最先端技術
          ⇔ 欧州、米国駐在
          ⇔ 設計チーム WANTS

シンプルスリムでは既存概念を打ち破り、意識改革を起こすのが目的で、目標としては「すべてを1/3」と高く設定している。ここまで高くすると、単なる改善・改良では達成不可能であるため、全く別の思考活動が必須となり、例え旨く行かなかった場合であっても、1/2は達成出来るとのことであった。
人材育成はトヨタグループ共通の基本概念であり、かつ強みとなっているが、アイシン精機も例外ではなく人材育成を重視している。しかし現実の企業を取り巻く環境は、設備自動化と分業化、メール普及によるコミュニケーション環境変化、フラット化や成果主義による会社制度の変化、情報の氾濫による情報環境の変化(聞かなくなる)など益々困難な方向へと進んでいる。そういう中での人材育成は困難を伴うが、アイシンでは高度の技術者の養成を目指し、五感だけではなく第六感を磨かせ、企業人としての心得を体得させるための新人教育に力を入れている。ものづくり原点工房では、五感を働かせたものづくりを教えている。
海外への展開が多くなっているが、その中でアイシン共通の概念を確立し、それを海外従業員に伝えるためのAISIN WAYを実践中である。
日本のものづくりの最強の一つである自動車部品の製造でトップに位置するアイシン精機において、工場見学およびものづくりについて林常勤監査役(前取締役 副社長)の講演をお聞きし、なぜ世界でトップの位置を占めることが出来たかという理由の一端を垣間見ることが出来た。技術革新を現場・現物で絶え間なく実行しているだけでなく、革新の目標自体が極めて高く設定されており、思考方法そのものにも革新が求められていることが印象的であった。またトヨタグループに共通する人材育成があらゆる所で顔を出してくるのにも感心した。
アイシン精機は企業の成立と発展過程で数多くの企業に分社化しており、それぞれが強みを発揮して独立的に発展してきた。林常勤監査役も質疑応答セッションで答えられた様に、これから部品のシステム化が進む中で、グループ企業それぞれの技術開発力強化とグループとしての協力作業をどう効果的に進めるかで、アイシン精機の指導的役割が一層重要なものとなっていくと予想される。今まで高い設定目標を次々に達成してきた歴史を見ると、それもまた実現していくことが期待出来た。(文責 相馬和彦)

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古代瓦に学ぶ千四百年前の先人の知恵と技術

と き :2007年11月7日
会 場 :日本科学未来館
ご講演 :(株)瓦宇工業所 代表取締役/人間国宝 小林章男氏
コーディネーター:LCA大学院大学 副学長 森谷正規氏
 

 21世紀フォーラムの第3回例会は、「古代瓦に学ぶ一千四百年前の先人の知恵と技術」と題して、瓦宇工業所の代表取締役である小林章男さんにお話いただいた。場所は、この会に限って、東京お台場にある日本科学未来館にしたが、それは最新の科学技術の場において古代の技術の素晴らしさを知って、その連綿としたつながりを感じようというものだ。小林さんは選定保存技術保持者いわゆる人間国宝の方であり、86歳のご高齢である。だが実に矍鑠とされていて、とてもお年には見えない。小林さんは、古代瓦を復元して製作されるばかりではなく、古代瓦を中心とした瓦の研究者でもある。精緻なデータが豊富に含まれている数多くの資料を用意されていて、お話は研究の成果を示すものでもあった。
 お話は、我が国の屋根瓦の歴史から始まった。日本書紀によれば、崇峻天皇元年(588年)に百済から4人の瓦博士が渡日してきて、瓦づくりが始まったという。瓦はまさしく1400年の歴史を持っているのであるが、古代の瓦ははたしてどのようなものであったのか。寺院に用いられた古代の瓦が現存しているので、実体を知ることができる。
 瓦の技術の根本は、窯にあるようだ。初期の6世紀から9世紀までは、斜面に縦長の穴を開けて、下部で燃やして火炎を上に上げる穴窯であった。やがて、平地に設ける平窯に変わって、16世紀まで続いた。その後に燃焼室が両側にあるダルマ窯が現れて、現在に至っている。さらに、昭和40年ころから燃料がガスに変わった。その窯によって、瓦の質がどう違うのか。窯別の瓦質のデータが示されているが、吸水率が窯によって大きく異なる。ガス窯は7、2%と、平窯の12、28%、ダルマ窯の16、53%に比べて、とても低いのである。吸水率を時代で見ると、平安時代は8、4%と低いが、鎌倉時代13、2%、江戸時代15、8%と上がり、明治時代は19、4%と高い。それが昭和の初期には、7、2%と大きく下がっている。それは、吸水率が高い瓦は見掛け気孔率が高い、つまり数多くの微小な穴が開いているためである。

  この吸水率は、瓦の性能に深く関係する。吸水率が高いと、大気中の水分の吸水が大きく、雨の日は家の中の湿気を吸い、天気になれば放出する。高温多湿の日本には必須の瓦であった。現代の瓦は吸水性に関しては、昔のものに比べて性能が大きく劣っているのであり、したがって湿気が多い時季には屋根裏に結露が生じるという。文化財として永久に保存していく寺院などには、古代瓦が必要不可欠なのだ。

   小林さんは、古代瓦の製法をスライドで見せたが、土を練ってブロックにして、それから薄い板として切り出した生の瓦は、水分がとても多くて柔らかく、扱うのが相当に難しい。それを一枚、一枚並べて天火干しにするのである。現代の大量生産ではとてもできない製法であったが、これが吸水率に深く関係しているようだ。その柔らかい生の瓦を切り出すのに、いまはピアノ線を用いているのだが、古代にはいったい何を使っていたのか。小林さんはいろいろと試したようだが、現物がないので解明はできず、ともあれ古代人の工夫の素晴らしさを意味しているのは間違いない。
   良い瓦を作るのに不可欠であるのが、良い土を探すことである。小林さんは土を探し出す苦労も話された。粘土の層は土中深く埋まっているので、長い鉄の棒を差し込んで、その感触で瓦になる土を見つけだす。そして土の質によって、焼く温度を変える。古代から現代までの瓦の化学組成分析結果もデータで示しているが、一つ一つ微妙に異なっている。現代の画一生産にはない難しさがあるのだ。
 最後に、飾り瓦の実物を古代のものからきわめて豊富にスライドで見せた。全国各地を探し回って収集したものであり、非常に多彩な飾り瓦が日本に存在していたのだ。時代とともに形が大きく変わってきているが、古代のものは素朴だがじつに雄渾であり、瓦が古くから素晴らしい工芸であったことを教えてくれた。
 10年ほど前にこの会で、法隆寺、東大寺などの再建のための古代釘を作っている白鷹幸伯さんのお話をお伺いしたが、やはり古代の釘は現代のものよりはるかに素晴らしかった。古代瓦もそうであることを知って感銘が深く、現代の技術を見直す深い思いを与えてもらえた例会であった。

森谷正規

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有機EL発光材料開発の軌跡

と き :2007年10月10日
会 場 :出光興産株式会社 中央研究所
ご講演 :電子材料部EL開発担当部長 EL開発研究所 所長 細川地潮氏
コーディネーター:LCA大学院大学 副学長 森谷正規氏
 

 「21世紀フォーラム」の第二回例会では、千葉県袖ケ浦市にある出光興産の中央研究所を訪問した。内房線の姉ヶ崎から車で20分ほど、広大な丘陵地の中にある。有機EL発光材料を開発した主幹研究員である細川地潮さんの講演が今回の主題であるが、研究所もご案内いただいて、さまざまな研究成果を見せていただいた。
   有機ELはいま注目のディスプレイである。液晶とプラズマの大画面テレビが普及の時代に入っているが、長期的にはより有望であるのが、有機ELだと言われる。きわめて薄くできるのが最大の特徴だが、明るくて画質が優れているとされる。これまで携帯電話機などの小型のディスプレイは実用化されているが、ソニーが有機ELテレビの市販を開始すると発表して、話題が広がっている。
 細川さんのお話は、「有機EL発光材料開発の軌跡」と題するものであり、さまざまな困難を乗り越えて、いかにして実用化への道を切り開いたのかという、チャレンジの物語が中心であった。細川さんは、1986年に出光の研究所に入って、大学は物理学の出身であるが、化学分野の開発である有機ELに取り組むよう命じられた。それは後にノーベル賞を受賞されたこの分野の権威であるヒーガー教授の「有機電子材料の研究のためには、物理の人間が必要です」とのアドバイスがあったためである。その当時注目されていたのは無機電子材料であり、海のものとも山のものとも知れない有機発光材料になぜ自分が取り組まねばならないのか、細川さんは疑問を抱いたが、入社歓迎会で「物理と化学が融合する研究開発をしていきます」と宣言して、この困難な開発に果敢に挑戦した。
    有機ELの原理から始まって、専門的な内容の詳細にわたる開発の経緯を詳しく話されたが、それはなかなか理解が難しかったものの、困難な壁を10年を越える長年の努力で突破してきた情熱はひしひしと伝わってきた。まずは、研究開発を開始して初期のころの87年9月に、青色発光材料ジスチリルアリーレンを用いて、明るい部屋でも見える青色発光に成功したことが、成功体験として非常に大きかったという。研究室長は、「青色は大切なのです」と研究所長、研究開発部長に訴えてくれて、大いに意気が上がった。小さい成功ではあるが、自信につながるのであり、初期にともかく何らかの成功をすることの意味は大きい。
 その成果を基に、まずは何とかしてより明るくする、つまり輝度を上げることに全力を注いだ。積層型を試みて2000cd/m2以上の高輝度を出すという成果を上げたが、1時間で輝度は5分の1に下がる。そこでドーピングによって長寿命化しようと試みて成果が上がるとともに、白色が出るという新たな成果もあった。そして青色発光層に青色蛍光分子をドーピングするという方法に思いついて、高輝度で安定した発光を実現することができた。それによってディスプレイの開発が可能になったが、それは1995年であり、10年近くの歳月が過ぎていた。
   この世界でも稀な開発成果に細川さんは自信をもっていたが、ある会合で課長が言った言葉に愕然とした。「今のままでは、君らは人夫以下だ。人夫は日銭を稼ぐが、君らは日銭を使う。」その言葉に反発して、何とかして商品化しようと全力を尽くした。幸いにもカーオーディオメーカーの開発陣と出会って、青と白の発光が注目された。カーオーディオのディスプレイは青か白でなければ売れないという。乗用車に必要な耐熱性の向上など実用化のための開発に努めて、世界初の有機ELディスプレイの実用化に成功したのである。1999年のことであった。
 これは、きわめて困難な革新技術への挑戦の事例である。可能性がなんとか見えている技術ではなく、ほとんど見えないまったくの革新技術の開発がどのようなものであるのかを如実に示してくれた。私は細川さんに次のような質問をした。長年にわたった研究開発の間に、はたしてものになるのかどうか、ものにならなかった場合は自分はどうなるのか、不安に駆られることはなかったのか、会社側から先の見えない役に立ちそうもない研究だとして続けることへの圧力はなかったのかと。やや意外ではあったが、それなりの研究成果を上げればよいと不安はなかったという細川さんの答えであった。また会社からの大きな圧力もなかったという。。
   これは、基礎的なところから始まって相当に長期にわたる革新技術の研究開発のあり方における望ましいかたちと言える。研究者自身も、会社も長期にわたってじっくりと待ってこそ、やがて成果は生じてくる。またこの場合は幸いにも成功したが、ついに成功には至らないというケースも多いはずである。有機ELは、いまでは非常に多くの企業が研究開発を行っているが、そのほとんどは、先が見え始めてからである。この出光の有機EL研究のような例は、多くはなくとも日本の研究開発にぜひとも必要であり、少なからぬ企業がまったくの革新技術にゼロから挑戦するよう望みたいという痛切な思いがした。

森谷正規

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世界初、体内埋設型超小型補助人工心臓実現への夢と苦闘

と   き:2007年10月17日(水)
訪 問 先:(株)サンメディカル技術研究所 本社工場
      (株)ミスズ工業
講   師:代表取締役会長 山崎壮一 氏
      代表取締役社長 山崎俊一 氏
      東京女子医科大学講師 山崎健二氏 
コーディネーター: 相馬和彦氏(元帝人(株)取締役 研究部門長)
 

 平成19年度後半の第三回は、長野県諏訪市にあるサンメディカル技術研究所を訪問した。諏訪市は精密機械部品の集積都市として有名であるが、同研究所も兄弟会社の精密部品製造会社であるミスズ工業の敷地に隣接しており、経営的・技術的にも密接な関係にある。今回のサンメディカル技術研究所は、異業種・独自企業研究会で過去訪問してきたものづくり企業の中でも、埋め込み型補助人工心臓という特異な製品を製造している。精密機械ではあるが、生命維持のために必要不可欠であり、かつ一瞬の誤作動も許容出来ない心臓補助機器であるため、製品のコンセプトを初め、誤作動や不良品の排除、更には認可に至るまでの安全性確認、保険申請など、実用化に至るまでには様々な課題を克服せざるを得ない。
 補助人工心臓の開発の中心となったのは、東京女子医大心臓血管外科の准教授である山崎健二先生であるが、ご家族全員が一丸となってこのプロジェクトを推進している。サンメディカル技術研究所は山崎俊一社長、ミスズ工業は山崎泰三社長といずれもご兄弟が就任し、グループ企業全体をご尊父の山崎荘一会長が纏めている。聞くところによると、本プロジェクトの当初の開発資金は、会長の決断により家族保有株の売却で得た資金を当てたとのことで、家族全員の支援があってこそ今日の成功が可能であったことが分かる。
   当日はまずサンメディカル技術研究所山崎俊一社長のご挨拶があり、ミスズ工業の紹介ビデオおよび「特ダネ」で放映された人工心臓に関するテレビ番組を見た後、グループに分かれて工場見学に移った。
ミスズ工業では金型制作、打ち抜き、メッキ、場合によってはその後の組み立てまで自社で行っている。元々はセイコーの部品供給から出発しているので、大きなものはやっておらず、小さな部品製造を得意としていて、自分で最後まで作り上げることを方針としている。従業員はミスズ工業全体で正社員が約500人、それに臨時社員がプラスされる。工場は国内に三ヶ所、中国に一ヶ所あり、諏訪工場には約300人が働いている。製品群を見せて貰ったが、時計部品から出発したと言うとおり、歯車などの部品も肉眼では細部が良く分からないほど細かい出来であった。工場では一年に二回、自分の好きなものを作って全員で評価する催しが行われているとのことで、ものづくりの原点を大切にしている社風が伺われた。
   サンメディカル技術研究所では、研究開始以来試作した人工心臓が保存されており、技術の進歩がプロペラの形状変化やポンプ・バッテリーの小型化で具体的に理解出来るようになっている。人工心臓はいったん埋め込んだ後は永久使用を目的としているので、部品の寿命には気をつけている。故障を排除するため、製品コンセプトとしてメカニカルで作動するように工夫し、センサーや電気的な作動は避けていて、軸受けは50年、シール部分は25年の耐久試験に耐えるように作られている。血栓防止はMPCの内面コートで対応しているが、MPCが剥がれても血栓は起きにくいようである。羊を使用したテストでは、埋め込み後二年半で人工心臓を取り出して検査したところ、血栓はまったく形成されていなかったとのことである。部品は総て無垢のチタンから削り出したものを使い、製造のクリーン度も10,000から初めて1,000へ上げ、最後の工程では100にしている。一ヶ月に1個しか製造出来ず、製造コストも1個当たり1,300~1,500万円程度と高価であるため、保険申請では1,400万円で申請中である。現在保険がついている米国製は1,310万円なので、性能から言ってもこの位は合理的であろうと考えている。
講演会場へ戻ってから、東京女子医大心臓血管外科准教授山崎健二先生による体内埋め込み型補助人工心臓についての講演をお聞きしたが、医師としての使命感だけでなく、ものづくりのエンジニアとしての視点も極めて高く、ものづくりの本質でも教えられることが多い内容であり感銘を受けた。
   補助型人工心臓は、拡張型心筋症という強心剤も効かなくなった末期の重症心不全の患者が対象となる。拡張型心筋症と診断されると、生存率は6ヶ月で26%、12ヶ月で6%と極めて低い。そのため、人工心臓に頼るか、心臓移植を受けるかしか選択肢がないが、後者は移植用心臓の供給数に限りがあり、移植後も拒絶反応が問題となる。人工心臓は米国でリンドバークが最初に提案し、1935年にプロトタイプが試作され、その後様々な形のものが提案されている。
重症心不全の患者数は、米国で5万~10万人、日本では2,000~3,000人と推定されている。補助人工心臓としては、HeartMateやNovaCoreがあり、薬物治療対比で生存率はアップするが、感染症、装置故障、脳血管障害などの合併症が課題となっている。そのため次世代の人工心臓が提案されており、軸流ポンプタイプではDeBakey、HeartMateなど、遠心ポンプタイプではEverheart(山崎先生)などがある。日本企業としてはサンメディカル技術研究所とテルモが開発しており、サンメディカル技術研究所は国内中心で、テルモは米国・欧州で治験を進めている。
 サンメディカル技術研究所は、1991年に山崎先生の考案した補助型人工心臓を実用化するために設立され、2005年度より臨床試験を開始した。血液を送るポンプは2,000rpmを中心とし、患者毎に微調整した固定回転数に設定する。心臓の血液循環量は患者の運動量によって変動するが、心臓には拍動によって内部に圧力差が生じるため、ポンプの回転数が一定であっても、その圧力差の変動に応じてポンプの循環量が変動する。そのため、ポンプは固定回転数であっても、結果的に患者の心拍数に追随した血液量の調節が出来る仕組みになっている。ポンプは毎分14リットル以上送れるので十分な能力を有している。
   人工心臓の内壁と血液の接触による血液凝固を防止するため、内壁には東大の石原先生の研究成果であるMPC(リン脂質)をコーティングしている。この装置を装着したヤギで823日間の稼動を確認しており、特に血栓の問題は認められていない。
治験プロトコールは、日米共通のものを末期の重症心不全患者で実施中であり、三分の二まで終了している。抗凝固剤としてアスピリン、ワーファリンの投与を併用している。医療費としては、入院中は毎月200万円掛かるが、退院後の自宅療養では毎月2~3万円で済む。治験は第1相が3名、第2相が11名で進めており、脳出血の合併症で亡くなった2名を除き、生存率は6ヶ月で91%、12ヶ月で78%、2年で78%と、強心剤投与(生存率は6ヶ月で26%、12ヶ月で6%)と比較し飛躍的に向上している(Kaplan-Meier法での推算による)。
   2007年6月には医療ニーズの高い医療装置の早期導入対象に選ばれ、7月6日にオーファンデバイスの指定を受けたので、最初の関門は突破した今回の訪問で印象に残ったことを三項目に纏めた。①ニーズは高いが極めて事業リスクの高い目標への挑戦。大企業ではこういうリスクの高い事業を手掛けることは極めて難しい。それに挑戦するのは、これこそまさに「夢」と「志」がなければ不可能である。必ずしも当初は潤沢な資金に恵まれていなかったにも拘わらず、手持ちの株を手放してまで開発資金を捻出したことは、それを雄弁に物語っている。②技術課題の克服。埋め込み型の医療器具では、血栓形成および装置の故障が大きな障害となっている。特に人工心臓のように故障があってはならないような器具は、技術的障害も極めて高い。それを長い時間を掛け、一つ一つ解決していった努力には敬服した。血栓はMPC塗布とシール部の水循環により解決し、故障除去には徹底的なシンプル化で対処したとのことであるが、ものづくりに携わる我々にとっても、設計コンセプトそのものの段階から学ぶことが多い。③このプロジェクトは会長を中心とした3人のご兄弟のチームワークなしには不可能であった。毛利元就の三本の矢のエピソードにもあるように、協力こそ強力な力となる。父親の存在感そのものが弱くなった現在では、非常に珍しい例ではないだろうか。講演中再三示されたように、健二先生はエンジニアとしての見識も極めて高く、心臓外科の専門医である先生がエンジニアとして一流のセンスをどうやって取得したものかに興味を惹かれた。最後のパーティーで伺ったところ、先生はピッツパーグ大学の大学院に留学中、自分が知りたいと思った専門外の学問を積極的に学ぶことに心がけ、医学以外についても習得することが出来た。その後になって人工心臓の開発を始めてからも、自分の知らないこと、必要なことはそれぞれの専門家から積極的に学ぶことを心がけた結果、様々な課題を解決することが出来たとのことであった。「壁は自分で作るものだが、それを除くことは出来ますよ」と穏やかに話された言葉は、技術者としての我々に対するまさに頂門の一針であった。(文責 相馬和彦)

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新たな成長戦略、ライフサイエンス分野への挑戦

と   き : 2007年9月13日
訪 問 先 : 富士フイルム(株)先進研究所 訪問
講    師: 執行役員 ライフサイエンス事業部次長 兼 同事業部事業開発室長 戸田雄三氏
コーディネーター: 相馬和彦氏(元帝人(株)取締役 研究部門長)

  平成19年度後半の第二回は、神奈川県足柄上郡開成町にある冨士フイルム先進研究所を訪問した。先進研究所は、冨士フイルムが写真事業から新しい事業分野へ進出する「第二の創業」を担う技術を開発するため、本年2月に竣工を見たばかりの新しい研究所である。そのためか研究所の外装・内装および構造にも、技術開発に掛ける思いや工夫が随所に見られ、会社としての意気込みが感じられた。先進研究所の敷地は周囲を田畑に囲まれていてゆったりとした環境であるが、研究所の外壁には智慧の象徴である青銅製のフクロウが飾られ、建物に入るとすぐにミネルバの銅像が立ち、この研究所が智慧を磨き、新技術を生み出すことを目的としていることを認識させた。
 冨士フイルムは写真フィルム全盛時代に高収益企業として有名であり、その利益基盤を消耗品であるフィルムと印画紙によるビジネスモデルに置いていたことは良く知られている。デジカメの普及に伴って従来のビジネスモデルが時代遅れとなる中で、主要事業から他の新規事業へのシフトが図られて来た。高収益事業である既存事業から新規事業への転換が如何に困難なことであるかは、過去に他企業でも経験されたことであり、失敗例にもことかかない。特に写真事業が高収益事業であっただけに、新規事業へのシフトが一層の困難さを伴ったであろうことは容易に想像出来た。そういう困難さをどうやって克服したかを知ることが出来ることも、今回の訪問で我々が強く抱いた期待の一つである。
   講演ではまず先進研究所の概況について、先端コア技術研究所の五十嵐明副所長から説明があった。先進研究所は組織ではなく、異なる研究所や組織を融合させる場所と位置付けられている。先進研究所の中には、組織としてはアドバンストマーキング研究所、先端コア技術研究所、有機合成化学研究所、ライフサイエンス研究所という四研究所があるが、これも常に固有の場所に分かれているのではなく、マトリックス組織的なもので、むしろ研究テーマ単位で研究員がその場所に集るようになっている。またライフサイエンス研究所(事業部の研究所)以外はコーポレート研究に所属してそれぞれが独立であるが、融合が必要な場合にはフィージビリティーチームを結成して検討し、いけるとなったらプロジェクトチームを作って開発を進めることになる。生産技術の段階に達した場合には、ディビジョナルラボまたは事業部で開発される。因みに技術関連の組織としては、冨士フィルムにはディビジョナルラボ群として、ライフサイエンス研究所以外にはフラットパネルディスプレイ研究所、メディカルシステム開発センター、エレクトロニクスマテリアルズ研究所があり、それ以外にも基盤技術開発センター群として生産技術センター、解析技術センター、ソフトウエア開発センター等多岐に渡る技術開発体制が整っている。
   冨士フイルムでは現在を第二の創業に時代と位置づけ、映像文化からQuality of Lifeへ転換しつつある。保有するコア技術の発展・融知・創新により新事業分野へ展開している。その結果、高機能材料、メディカルシステム/ライフサイエンス、情報システム/ソリューション、光学デバイス/コンポーネント事業などへ展開したが、先進研究所ではこれら四事業分野以外の新規分野を探索している。先端コア技術研究所ではフォトニクス、ナノテクノロジー、機能性材料などの5~10年後のコア技術を、有機合成化学研究所では有機エレクトロニクス分野、メディカル/ライフサイエンス分野などで高機能性有機材料による新たな付加価値の創造を、アドバンストマーキング研究所ではインクジェット等新しいマーキング技術の材料・デバイス・システムを開発している。ライフサイエンス研究所では蛋白質および遺伝子の解析/診断システム、創薬/創薬支援、再生医療技術開発、ヘルスケアなどの医療、健康に関するコア技術および商品開発を実施している。
   この後研究所の見学を行ったが、全体的にスペースに余裕があり、ガラス張りが多いせいか見通しが大変良好であった。仕事場は少しの例外はあるもののパーティションがないこと、机の配置は迷路のようになっていて移動すると人にぶつかる工夫がされていること、会議室はガラス張りで外から何をやっているかが見えてしまうこと、図書室は個別机が少なく共通机が多いことなど、人と人との接触を可能な限り増加させて融知を起こす様々な工夫がなされていた。
セキュリティーは三段階に区分されたおり、社外の人を入れて交流を深めることと、企業秘密を保持することとのバランスが考慮されていた。研究所の工費は建物本体に150億円、設備投資に今後の投資予定を含めると総額で450億円が投資されている。
冨士フィルムの新規事業の一つであるライフサイエンスの中心として活躍されたおられる戸田雄三執行役員・ライフサイエンス事業部次長兼事業開発部長より、新たな成長戦略としてのライフサイエンス事業のお話を伺った。
メディカルシステム事業では、イメージや印刷でのデジタル化が早く、FCR1903 imagerは1989年に上市した。総合画像診断、形態診断、機能診断、核医学検査などを実施している。核医学検査では、世界でもGEと冨士フイルムの二社による寡占体制を維持している。RI医療では核物質に半減期があるため、定時デリバリーを可能とするデリバリーシステムの確立がコアとなり、他社の参入障壁が高い。内視鏡システムでは、経口に比べて患者の負担が軽いと言われる経鼻のものを上市し、バルーンも保有している。それ以外には、化粧品、創薬スクリーニングシステム、DDS抗がん剤、再生医療なども実施している。
ヘルスケアでは治療よりも予防に注力している。技術としてはナノテク(FTD)、活性酸素の制御、コラーゲン/ゼラチンで培った自社技術などを活用している。化粧品は冨士フィルムとは関連性が低いように見られるが、実は抗酸化物としてのアスタキサンチンをナノレベルで乳化する技術を開発したことが発端となっており、自社技術をベースとしていることは他の新規事業と同等である。再生医療もリコンビナントゼラチンを入手したことがきっかけであり、伝統的に自社技術への拘りが強いことを伺わせた。
新規事業を行ってきた経験から、新規事業を成功するためには三つの要素があると思っている。一つ目は「やりたい」という情熱・夢、二つ目は「やれそう」というリソース(資源)、三つ目は「やるべき」という合理性である。この三つが揃って初めて成功への道を歩むことが出来る。
   訪問者には関心が高くかつ示唆に富んだ講演であったので、講演終了後には多くの質問が出た。いくつかを撰んで下記に纏めた。
1.新規事業の選択はトップダウンでなされたのか、あるいはボトムアップなのか?
過去の例は、ほとんどが現業の先にやるべきことはあるか?という研究者の問いかけからスタートしている。そうして生まれた小さな事業を纏めてある規模に達してから、トップはM&Aで事業を拡大することも考えたが、先にM&Aで新規事業を取り込んだことはない。今まではボトムアップが主流であった。
2.新規事業は写真事業に比べ、個々の事業規模は遥かに小粒である。このことは企業文化として問題はなかったのか?
確かに新規事業は個々には小さく、最近では小事業にも慣れて来た。しかし規模としては1000億円規模を目標に探索しようとしている。
3.研究テーマが新規事業を目標とする分だけ成果にはすぐに繋がらす、テーマの継続が難しいのではないか?
  会社自体にテーマは自由にやらせる雰囲気があり、将来のためにやっておくべきだという意識が上下で共有されている。従っていわゆるアングラ研究、闇研という意識はなく、明るいところでやれる。ただあまりに自由にやってきたので、これからはステージゲートプロセスの採用などで、テーマの継続/中止などをもっと迅速にやるべきだとは思っている。
 質問に関連したコメントとして、冨士フイルムのコア技術は製造技術であり、そのためになんでも自分で作りたがる性癖を有している。例えばフィルムの感光防止技術は極めて高度のレベルに達したので、チェルノブイルで原発事故が起こった際、放射性物質が飛来して製造中のフィルムを感光させることを危惧し、行政から警告が出る前に製造工場を停止したこともあるとのことであった。
 また研究開発に関して、これだけの大企業では極めて管理志向が低く、自由な発想を尊重する企業文化を維持しており、その点では大企業でありながらベンチャー企業文化も同じに有する数少ない企業であると思われる。それが過去に写真技術で世界トップの技術を開発し、更にコア技術を発展・融合しながら新規事業へ繋がる技術開発が実施出来る原動力となっていることを実感した一日となった。(文責 相馬和彦)

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フェラーリチーフデザイナとして活動したものづくり-今日の夢と挑戦

と き :2007年9月26日
会 場 :全国町村会館
ご講演 :CEO KEN OKUYAMA DESIGN 奥山清行氏
コーディネーター:LCA大学院大学 副学長 森谷正規氏

 21世紀フォーラム、2007年度後期の第一回は、奥山清行さんの「フェラーリチーフデザイナーとして見た“ものづくり”、そして明日への夢と挑戦」であった。奥山さんは、GMとポルシェでチーフデザイナーを務めた後、イタリアのカロッツェリアであるピニンファリーナに移ってデザイン・ディレクターを務めていて、あの「エンツォ・フェラーリ」をデザインしたことで著名である。いまは帰国して、故郷の山形県で「山形工房」を設けて、木工家具や鋳物のものづくりを指導しており、その製品は海外で評価を高めている。奥村さんはこの8月に「伝統の逆襲-日本の技が世界ブランドになる日」(祥伝社)という著書を出版しているが、日本が進む新たなものづくりに大きな示唆を与える良い本であり、私は毎日新聞で書評に取り上げた。
奥山さんはまず、イタリアではいかにものづくりをしているのか、それをフェラーリを通して詳しく語った。フェラーリが創業55周年を記念して製造した「エンツォ・フェラーリ」は、7500万円もする超高級車であるが、349台の生産に限定した。フェラーリは車を需要より1台少なくつくることにしており、需要を350台と見込んだのだ。ところが、世界中で大評判になって、申し込みが殺到した。フェラーリは半額の申し込み金を取ったが、それでも申し込みは生産台数をはるかに越えた。そこで、過去の購買実績、所有している車などをもとにしてランクをつくって、上位の者から売ることにしたのである。このような販売がありうるとは、驚きである。
 なぜ、フェラーリはこのように非常に高い人気があるのか。それは、顧客がフェラーリの過去を買っているからだという。フェラーリの顧客には事業に成功した大金持ちが多いのだが、いまではふんだんにお金があって、何でも買うことができる。ただ買えないのが過去であるが、フェラーリは過去においてF1を中心にしたさまざまな伝統があって非常に大きい蓄積があっていまに至っているのであり、そのフェラーリを買うことは、過去を買うことになるのだという。高度な工業製品は未来の匂いがするものなのだが、こうした特別な製品は、過去を背負っているのである。過去を買うと言うのはとてもユニークな視点であり、今後の高級製品のありかたに示唆を与える。
   ピニンファリーナがフェラーリから「エンツォ・フェラーリ」を受注する経緯も詳しく語った。それはとてもドラマティックなものであった。いろいろとデザインしたがフェラーリの社長の承認がどうにも得られず、いよいよ最後となってもOKが出ず、社長は帰ろうとして乗ってきたヘリコプターのエンジンをスタートさせた。だが、サンドイッチでもどうぞと引き留めて、奥村さんはその間の15分の間に新たなデザインを描いて、社長に見せて、ついに承認を得ることができた。発注者とデザイナーの間で、両者のきわめて鋭い感覚が一瞬の接点を生んだのだろう。
   これは、発注者とデザイナーの間の重要なコミュニケーションであるが、奥村さんはデザイナーは関連する多くの人たちとの間でのコミュニケーションを密にしなければならないと言う。開発部門、生産部門、販売部門、顧客などとの間での広く深いコミュニケーションがあってこそ、良い製品が生まれるのである。さらにデザイナーにとって仕事でまず必要であるのは、コンセプトづくりであると言う。この点は著書でも力説している。一般には、デザイナーは外見をかっこ良くする仕事と思われがちであるが、製品のコンセプトづくりからスタートするのであり、それが製品を大きく左右する。デザイナーは、コンセプト、デザイン、コミュニケーションにそれぞれ3分の1の力を配分するのだと言う。
   イタリアに優れたブランドが多いのはなぜか、その由縁も語ったが、ブランドは顧客が育てるものだと言う。イタリアでは、庶民は所得は多くはなく、生活はとても地味だが、少ないお金を有効に使おうと懸命に努力する。そこで、物をただ買うのではなく、製品として厳しい目で見て、口を出していろいろと注文をつけるのである。それに応えることで製品は洗練されて、ブランドとして育っていく。一方日本では、大企業の製品であればみなが信用して、何も言わずに買ってしまう。それはよろしくないのである。

 これからのものづくりについては、農耕型であるべきと説いた。これまでのように技術をネタにして何かを探そうと努力しても、今の時代では良いものは見つからない。そこで、これから何が求められるのかを探って、タネを植えるというのである。あるいは、デザイナーはシェフであるべきだとも言う。供する料理のメニューを自らつくるのである。それがコンセプトをつくることにもなる。
アメリカ、イタリアで素晴らしい業績を上げた奥村さんの話しは、やはり凄みがあって、みなが聞き入った。新しいものづくりを大いに考えさせられる一時であった。

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