新経営研究会
年とともに美しく、気品と風格を加え 老いる和紙
- 2009-03-23 (月)
- 随想随感 (代表 松尾 隆)
かつて、越前和紙の中でも最高峰といわれる生漉奉書(きずきほうしょ/100%楮[こうぞ]で漉き上げる厚手の和紙)で国の重要無形文化財保持者(人間国宝) 九代 岩野市兵衛氏をその工房にお訪ねしたことがある。
そこで、長い繊維が長いままに、制作のどの工程においても自然の繊維が自然の性質を損なわず、むしろより発揮出来るよう、自然の命に手を添えるように、納得いくまで時間と手間ひまを掛けて越前奉書が漉かれているのに感嘆したのは、まだ記憶に新しい。
岩野市兵衛氏によって漉かれた生漉奉書の肌合いは、実にふっくらと柔らかい。
この越前奉書に限らず、和紙の耐用年数は千年以上、洋紙は百年の単位であるという。
和紙は今日、イタリアのシスティーナ礼拝堂などにおける文化財の保存・修理に不可欠の素材となっているばかりでなく、和紙が持つ基本特性と機能が注目され、電子・建材分野など、現代最先端のハイテク素材としても注目されている。
しかし、私がこの和紙に大きな関心を持つのはそれだけではない。
この越前生漉奉書で先代(八代)岩野市兵衛氏(水上勉の名作”弥陀の舞”のモデル、主人公の弥平その人)の代からのユーザーであり、この度ご同行いただいた(財)アダチ伝統木版画技術保存財団理事長の安達以乍牟(いさむ)氏によると、優れた生漉奉書は、年とともに、それなりに年をとって行くという。それは、優れた生漉奉書がひとしく備える品格とでもいうべきもので、その年のとり方は美しく、風格のあるもので、実に立派に年をとっていく。それは古陶磁器などにも通じるものがある。
そういえば、浮世絵はこの越前生漉奉書に摺られるが、浮世絵の一つの大きな特徴は、その絵の具は紙の表面に留まらず、内部にまで染み込み、絵に現われている色は絵の具本来の色ではなく、紙の繊維とのコラボレーションによって生まれている色だ、ということだ。そして、紙の繊維と絵の具は、歳月とともに、寄り添うように品格と風格を増しながら美しく年老い、作品は更に落ち着いて、創作時よりも更に味わい深いものになっていく。
思えば、ついこの間まで、私たちは、このように年とともに品格と風格を増し、美しく立派に年をとっていく様々なものに囲まれていた。身の回りの食器や調度・家具・道具にしてもそうであったし、寺社やその石段はもちろん、私たちの家屋にしても皆そうであった。街とか界隈といわれるものもそうであった。そこには、人々のこれまでの生活の歴史と息づかいが、共に記憶として刻まれていた。
今、私たちを取り巻く素材・製品の殆どは、磨き上げたくともそれは劣化を速めるだけで、ある日、突然、醜くく疲労破壊してしまう。
年とともに美しく、気品と風格を加え 老いていく、そのような素材・製品というものを、私たちは再び取り戻していくことは出来ないものか。
「時が育てる美しさ…」、この言葉を、私たちは、今、噛み締めてみる時に来ているのではないか。
(新経営研究会 代表 松尾 隆)
- コメント (Close): 0
- トラックバック (Close): 0
5000年の歴史への挑戦、鉛フリーはんだの開発と世界展開
- 2009-03-11 (水)
- イノベーションフォーラム21
と き :2009年2月18日
会 場 :東京理科大学 森戸記念館
ご講演 :パナソニック(株) 生産革新本部 実装技術研究所 参事 末次憲一郎 氏
コーディネーター:LCA大学院大学 副学長 森谷正規氏
21世紀フォーラムの2008年度後期第6回は、パナソニックの生産革新本部・実装技術研究所参事である末次憲一郎さんの「5000年の歴史への挑戦 鉛フリーはんだ開発と世界展開」と題するお話しであった。
まず自己紹介から始まったが、京都大学に入学して、ノーベル賞の湯川博士の講演を聴く機会があり、終わった後で質問に立ち「世の中で最も大切なものは何ですか」と問うと、「大地に両足で立つことです」との言葉をいただき、「私はそれを生きていく信条にしている」との感銘を受けるエピソードが紹介された。
1980年に松下電器に入社して、生産技術研究所に配属されたが、樹脂、金型、光ヘッド、カラーフィルター、半導体の自動化、自転車とじつにさまざまな技術を次から次へと担当してきた。91年に、回路実装技術研究所に転属になり、94年から鉛フリーはんだ技術の基礎研究に着手した。
はんだは、鉛37%、錫63%の組成であるが、これは古代からそうであったという。鉛の実用の歴史は非常に古いが、健康への被害も早くから出ていたようで、ローマ帝国ではワインを甘くするために鉛を入れていて、暴君ネロも鉛に頭をやられていたのではないかと言われる。ベートーベンの頭髪からは、通常の100倍もの鉛が検出されたという。晩年に精神が異常気味であったのは、そのせいらしい。日本では、白粉に鉛が入っていて、江戸時代からお女中などに被害があったことが知られている。
だが、鉛の規制が始まったのは、ごく最近である。なぜ非常に長い間、放置されていたのか、不思議ではある。1989年から規制の動きが生じたが、米国では、93年に議会で問題として取り上げられたものの、対応が困難であるとギブアップされた。96年になって、EUで自動車に対する規制が始まり、2003年のRoHS規制で、鉛使用の禁止への動きは本格的なものになった。 末次さんは、研究にいち早く着手したのだが、1995年1月17日に生じた阪神淡路大震災に遭遇して、決意を固めたという。被災の現場で、電機製品が雨に打たれている状況を見て、鉛成分が溶け出すのではないか、自分たちの飲む水にも混入するのではないか、それは絶対に防がねばならないというのである。
鉛をなくすには、錫に何を加えるかが問題になる。亜鉛、銀、ビスマス、インジュームなどを加え、その配合を変えて、実験を進めた。はんだが溶けて、濡れ上がり、濡れ広がりがどれほど生じるかが問題だ。それが大きくないと、はんだの性能が得られない。メッキの材質との相性や耐熱性も問題になる。
鉛をなくすことによる難問は多いのであり、その開発には三すくみが生じた。関連するのが、はんだのメーカー、部品メーカー、セットメーカーであるが、どれも強いリーダーシップを取れないのである。
そこで、セットメーカーである松下が、自ら始めるしかなかった。96年に光ディスク事業部に働きかけて、ともかく量産製品で、世界初の鉛フリーはんだの採用を実現させた。もっとも700台であり、多くはない。だが、始まったものの設備などのインフラが整わず、広がっていかなかった。やはり三すくみであった。末次さんは、やむなく工業誌への論文投稿をしていた。
98年になって、再び動き始めた。まさしく大量生産のMDへの採用を事業部が決めたのである。工業誌の論文を見たのであり、環境に良いというのは立派な付加価値であるとして、鉛フリーはんだを採用することにした。末次さんと打ち合わせをしていて、他社もやり始めていると知って、やるからには一番乗りと、その場でケイタイで上司に電話をして決めた。末次さんの強い思いが伝わったのであろう、地震現場で誓った願いが叶ったのである。
それまでの研究成果から、このMDでは、錫、銀、ビスマス、インジュームの組成のものを採用した。この組成のはんだは、後に非常に高く評価されて、米国IPC(電子機械実装工業会)の特別賞を2000年に受賞したが、ライト兄弟の偉業に匹敵すると称えられた。
その後の展開は急速であった。松下では全社プロジェクトを組んで、一気に12000種もある全製品に広げることにした。そのために、はんだのテクノスクールを設けて、新しい技術であり実用に当たって多くの問題を抱えている鉛フリーはんだの技術を、現場に広めていった。その松下の組織力はじつに見事である。それによって、はんだづけの不良率が下がったという。これを契機に、はんだの技術をより深めたのである。
鉛フリーはんだは、やがて世界に広がった。なにしろRoHS規制があるから他の国も懸命にやらざるをえない。日本ではJEITAが普及に力を注ぐようになり、積極的に海外の企業との連携を深めていったが、2001年にはワールドサミットが開催された。普及をいかに進めるかのワールドロードマップをつくるのだが、日本がリーダーシップを取り、日本で開催された。国際的な基準や規制で日本がリーダーシップを取るのは珍しいことであり、日本が技術で断然リードしていると、それが可能である。末次さんは、引き続いて開催されているこのワールドサミットの中心メンバーである。
鉛フリーはんだは、これで完成したのではなく、RoHS規制の2010年の新しい基準に向けて、高温はんだなど新しい技術の開発が必要になる。日本企業の全体で、そのための努力が必要であると、末次さんは強調された。
森谷正規
- コメント (Close): 0
- トラックバック (Close): 0
省エネの液晶、創エネの太陽電池 シャープの21世紀ヴィジョン
- 2009-03-09 (月)
- 異業種・独自企業研究会
と き : 2009年2月13日
訪 問 先 : シャープ(株)亀山工場
講 師 : 取締役 専務執行役員 太田賢司 氏
コーディネーター: 相馬和彦氏 (元帝人(株)取締役 研究部門長)
2008年度後期の第5回は、平成21年2月13日にシャープの亀山工場を訪問した。
シャープ亀山工場は、開発部門と生産部門間で密接な擦り合わせが常時行われることを狙い、又、デバイスと商品を互いに競わせ、部門の壁を超えた‘ものづくり’の強みを発揮させることを狙い、徹底した生産革新と物流及び生産・検査工程の合理化を図った世界初の画期的垂直統合型液晶テレビの一貫生産を実現した工場で、この最新鋭液晶工場建設時には海外競合企業の注目の的となり、工場資材搬入時の隠し撮りをされるなど新聞報道されたことはまだ記憶に新しい。
そもそも1953年、国産初のテレビを生み出したのも、又“ブラウン管から液晶へ”の流れを加速させて液晶テレビ市場を切り開き、大型液晶テレビ市場を自ら開拓して来たのもシャープであった。
又、2005年12月、同社の電卓技術開発はその後の半導体と液晶の発展の起点ともなった「歴史的偉業」であったとIEEEより認められ、「マイルストーン賞」を受賞した。
創業時、シャープペンシルからスタートした同社であったが、時代を画するヒット商品を辿っていくと、液晶にしてもその前の光ピックアップ用半導体レーザーにしても、何れも必ずシャープのデバイスに行き当たる…、というのは何故だろう。ソニーがCD開発時、その肝心のソニーは未だ半導体レーザーを持っていず、ソニーが開発した世界初のCDプレーヤーにはシャープの半導体レーザー(世界初)が搭載されていたのである。
以上のような背景もあり、今回の亀山工場の訪問は大きな期待と共に、長い間、同亀山工場には外部者立ち入りが困難であったことも反映されたためか、参加者数は72名と最近の研究会では珍しい多人数となった。
最初に取締役 専務執行役員で技術担当の太田賢司氏より、「省エネの液晶、創エネの太陽電池」 ~シャープの21世紀ビジョン~ と題した講演をいただいた。シャープは1912年に創業され、2007年度の売上が、単体で2兆7688億円、連結で3兆4177億円に達している。従業員は同年度の単体で約22,000人、連結で約50,000人の規模である。
業務内容は技術の進歩および時代の変化によって発展し、1958年にはテレビ、ラジオ製造、1976年にはこれに音響製品が、1986年には更に情報機器がプラスされ、この年に部品から最終製品までの垂直統合生産に踏み切った。1996年には、更に携帯機器が追加された。この間、アセンブリ生産から電子デバイス生産へと業務内容が発展すると共に、部品の垂直統合生産が加速された。
1998年8月には、当時の社長がブラウン管テレビ全廃を宣言し、思い切った発表に社内に衝撃が走った。その後社内で液晶技術の進歩と製品開発を可能にしたのは、このトップダウンによる社内の意思統一が原動力となった。この宣言の伏線として、社内ではその10年前に、LSIから液晶へ軸足をシフトしていた事実があった。2001年には最初の液晶テレビの発売に漕ぎ着け、それ以降液晶へのシフトが加速した。当初は、20型から26型までは液晶で行けると踏んでいたが、30型以上は別方式の可能性があると予測しており、現在のような大型にまで液晶が普及するとは思っていなかった。15年前頃から、携帯などの液晶応用製品が拡大したことが、その後の液晶テレビの追い風になった。
液晶の生産は最初枚様式が有力であったが、生産速度から枚様式では無理と判断し、ガラスの大型化へ切り替えた。G4時代(68x88cm)に次のG6(150x180cm)を検討するなど、常にその次を狙った技術開発を継続実施した。シュミレーションではG8(216x246cm)が限界と考えられたが、堺工場の新設備ではそれを超えるG10(285x305cm)を予定している。
ブラウン管の時代には、シャープはブラウン管を他社から購入してテレビを組立てており、自前のものを持ちたいという願望を長い間持っていた。それが液晶で漸く実現した。液晶の開発にはそれだけの思いが込められている。
今後の技術開発としては、二つの方向を考えている。
①環境、エネルギー、健康にエレクトロニクス技術を応用する。
②太陽電池の普及。多結晶でスタートしたが、薄膜、化合物、集光など様々な技術を検討しており、この中の薄膜は堺工場で生産を予定している。太陽電池事業は、2007年までの累計で2GWに達し、事業規模としても1,500億年のビジネスに発展した。
亀山工場は敷地が約10万坪あり、液晶第一工場が2004年から、第二工場が2006年から稼動している。様々な省エネ設備、安全対策設備を保有していて、太陽光発電で5MW、コジェネで24,400KW、燃料電池で1,000KWを供給している。燃料電池は国内で最大規模。瞬時電圧低下防止対策として、超伝導を利用した技術を使っているが、これは世界でも最大規模である。工場廃水は100%リサイクルされ、第一工場で13.5Kton/D、第二工場で33.0Kton/Dに達する。また地震、落雷などに対する防災対策、エネルギー源安定対策も行なっており、設計時から災害が起こっても数日以内で立ち上げ可能な目標を立てていた。実際に地震があったが、第一工場は翌日、第二工場は当日夜には立ち上がった。
堺事業所は環境配慮型のコンビナート構想に基づき、液晶と薄膜太陽電池の生産を予定している。敷地は127万㎡(38.5万坪)あり、2010年3月の稼動を予定している。海岸にあるため、津波や高潮対策も必要であり、地震対策は亀山と同じ対応を取る。
今後の開発方針の進め方としては、以下のように考えている。
①環境・エネルギー分野で、シャープ一社の単独実施ではなく、他の組織とのオープン・イノベーションを追求する。
②グローバル展開では、その地方の通念、文化、風土に合った展開を行なう。
太田専務の講演終了後、限られた時間内ではあったが、質疑応答を行なった。エレクトロニクス分野は、近年新規の大型商品がなかなか出にくくなっている。またメーカーは従来ハードの製造販売をメイン事業として来たが、netbookの躍進やビデオ・オン・デマンドの進歩など、ネットの普及と高速化によりハードの役割が低下しつつある。そのためハードを売るだけでなく、iPodのように使い方やソフトとハードの融合(iTunes)も考えないと、今後の伸びが困難な変化が起こりつつあるように見える。このような環境下で、シャープは今後どのような技術開発・事業展開をおこなっていこうとしているのかを質問した。これに対して太田専務からは、①先進国では新製品が難しいので、発展途上国で必ずしも先端技術でないものでも、その地域に適したものをグローバル展開する、②日本国内では、異業種と組んだ境界領域での展開を考えており、研究者も研究所内に閉じこもるのではなく、今までの領域から一歩踏み出す、という極めて率直な回答を得た。
ビデオによる工場概況の説明があった後、3班に分かれて工場見学に移った。見学した設備の概要を以下に纏めた。
①コジェネ設備
ガスエンジン発電機が5台あり、都市ガスを使用している。
②燃料電池
Fuel Cell Energy社(米国)の燃料電池が4台設置されていた。
次いで第二工場に移動し、設備および展示品を見学した。
③制震ダンパー
地震対策として建物に組み込まれている制震ダンパーの実物を見た。第二工場には全部で500本設置されており、震度7の揺れを震度1に制震出来るとのこと。実際に起こった地震でダンパーが少し動いた後が残っていた。
④108型の超大型液晶テレビなど、最新鋭の商品展示。
⑤シャープペンシル(1915年)、白黒テレビ(1953年)、電卓(1973年)、液晶テレビ(1987年)など歴史的な第一号機の展示コーナー。
⑥液晶の原理説明パネル。
⑦新型アクオスの展示。画像が極めて鮮明で綺麗。
⑧インフォメーション・ディスプレイ
⑨シートコンピューター、CPU(8ビット、2002年)、携帯ゲーム用ディスプレイ、3Dディスプレイ、デュアルビュー・トリプルビュー液晶ディスプレイ、インパネ液晶などテレビ以外の部材・液晶ディスプレイ。
⑩液晶製造工程
液晶製造工程の一部を窓から覗いた。従業員は見られず無人。ただ製造スケジュールの関係で、機械は動いておらず、実際の工程詳細はビデオで見た。
⑪屋上の太陽光発電システム
工場の屋根を太陽電池が覆っている。47,000㎡で5150KWの発電能力がある。得られた電力で噴水を飛ばしているが、丁度曇天だったため噴水の勢いは弱く、天候の影響が如実に観察された。
本日の講演および工場見学で見られたように、常に新しい技術に挑戦し、それを市場へ提案し続けるシャープならではの企業風土、ものづくりへの思いを強く感じることが出来た。「需要は自らつくるものである」(辻元社長)のような言葉がどんな風土から出てきたのか長年知りたいと思っていたが、本日の太田専務の講演から、その一端をうかがうことが出来た。今日のエレクトロニクス産業を取り巻く環境は、極めて厳しいものがあるが、シャープの企業風土であれば、これからも変化に立派に対応していくであろう。ものづくりの基本は独自の技術開発にあることを再確認し、また部品開発は他社に任せ、自社では組立をやっていれば良いという近年の風潮に対する警鐘も実感することが出来て、期待通りの有意義な訪問となった。
(文責 相馬和彦)
- コメント (Close): 0
- トラックバック (Close): 0
コマツの原点 撤退目前だった産機事業復活の道程
- 2009-02-06 (金)
- イノベーションフォーラム21
と き :2009年1月20日
会 場 :東京理科大学 森戸記念館
ご講演 :コマツ 取締役 専務執行役員 産機事業統括本部長 鈴木康夫 氏
コーディネーター:LCA大学院大学 副学長 森谷正規氏
2008年度後期「21世紀フォーラム」の第5回は、「コマツの原点 撤退目前であった産機事業復活の道程」というテーマで、コマツの鈴木康夫取締役専務執行役員、産機事業統括本部長にお話しいただいた。
コマツといえば世界に冠たる建設機械メーカーであるが、かつては大型プレスなどの産業機械が中心であった。いまでは、建設機械の急速な伸びで、産業機械は主力部門ではなくなっているが、大型プレスは世界で3社の中の1社であり、堅実なビジネスを続けている。ただし、大型プレスは自動車メーカーが主たる顧客であるが、設備投資の時期には大量の受注ができるものの、繁閑の差が大きいという問題がある。そこで、1970年代に中小型のプレスと板金機械に進出し、コマツ産機という子会社を設立して、開発、生産に当たった。
ところが、このコマツ産機が1990年代に甚だしい業績不振に陥って、毎年大きな赤字を出すようになった。受注が減少して収益が減り、そこで合理化を進めて、リストラも行ったが、業績はどうにも回復しない。マーケットが伸びないこともあったが、業界でのシェアも大きく下がった。中小型プレスのライバルはアイダであり、板金機械のライバルはアマダであるが、この両社は確かな収益を上げている。その業績不振が続いて、コマツ本社の経営での大きな問題になった。この部門を売却して撤退する話も出たが、当事者たちに挽回のチャンスを与えようということになった。
そこでコマツ産機では、98年にタスクフォースを組んで、不振の原因を徹底的に分析して、回復のための対応策を考えることになった。経営コンサルタントの三枝匡さんが加わって、その指導の基に必死の作業を行った。そのリーダーが鈴木さんである。経営からは、2年間だけ猶予を与えるから、その間に立て直すように厳しく言われた。立ち直れなかったら、会社は売却するか解散するかであると、言わば最後通牒を突き付けられた。
鈴木さんは、コマツ産機がいかにひどい会社であったかを長い時間をとって非常に詳細に話した。開発は、ユーザーメリットがあいまいな製品を開発する、開発期間が非常に長い、開発費にムダが多い、営業との間に大きな壁があるなどの問題を抱えていた。営業の問題は、ライバル企業に負けているという認識がなく、商談への参加がライバルに比べて少なく、各支店がモンロー主義で連携がないなどである。また組織がとても複雑であり、責任の所在が分かりにくいというのも大きな問題点であった。
こうした問題を各部門が率直に反省してすべてをさらけ出して、まとめて経営に詳しく報告し、その上で大幅な改革に基づく新しいビジネスプランを出した。2年内に黒字化するという目標であった。経営は、問題はよく把握しているが、利益を出すプランは甘すぎる、収支はトントンでよいから、ともかく2年間頑張れ、それで赤字が解消できなければ、解散だと宣言された。
99年の4月から新体制の準備に入り、7月から動き始めた。それはいかなる改革であったのかを、鈴木さんは非常に詳しく話した。その柱は、ビジネス戦略立案、業務プロセス改革、そして、マインド行動であり、核になるのが実行に移すための気骨の人事である。
戦略は、その狙いとして、勝ち戦をする、商品の絞りと集中、シンプルな目標、ストーリー性などを挙げたが、PPM(プロダクト・ポートフォリオ・マップ)などを使いこなすものであり、コンサルタントが加わったからであろう、いくつかの戦略手法を駆使するものであった。こうした手法は経営戦略としてはいろいろとあるのだが、それを実際に用いて、大きな成果を上げた点が非常に参考になった。
業務プロセスの改革では、開発、生産、販売の一気通貫を実現した。また、事業部制にして、事業部長に権限を委譲して責任を持って当たらせたが、事業部長には39歳から41歳の若い優秀な人材を起用した。これが気骨の人事の要である。支店では、支店長、営業部長の職制をなくした。皆が営業マンである。支店長には、実は営業がやりたかったのだと喜んだ者もいたという。このような抜擢の人事は、企業においてはなかなやりにくいのだが、まさしく危急存亡の時であり、実行できたのであろう。
マインド行動は、全員を改革に突き進ませるために行うものであり、鈴木さんが全社を絶えずまわって鼓舞激励した。そこで、これまでがいかにひどかったのかを詳しく示して、その上で改革のシンプルな目標を打ち出したのが説得性があった。
こうした改革によって、たちまち業績は好転していった。2年内に黒字化の目標は達成された。急速な好転は、それまでがひどい状況であったからとも言えるのだが、大胆な改革を実現したその内容、採用した手段は大いに参考になった。戦略性の高い改革であるのが、注視すべき点である。
この大不況の中で、それを乗り越えるために企業は大きなチェンジを迫られている。鈴木さんに、見事なチェンジの実例を見せていただいた。
(2009年1月 森谷正規)
- コメント (Close): 0
- トラックバック (Close): 0
激変する時代環境と、トヨタの研究・技術開発
- 2009-01-22 (木)
- 異業種・独自企業研究会
と き : 2008年12月19日
訪 問 先 : トヨタ自動車(株)東富士研究所
講 師 : 代表取締役副社長 瀧本正民 氏
コーディネーター: 相馬和彦氏 (元帝人(株)取締役 研究部門長)
2008年度後半の「異業種・独自企業研究会」第4回は、12月19日にトヨタ自動車東冨士研究所を訪問した。金融危機が実体経済に波及し、自動車産業も米国市場を中心として世界規模で需要が落ち込みつつある最悪のタイミングとなり、訪問が実現するかどうかも危ぶまれたが、幸いにも快く我々の訪問を受け入れていただいた。今回のような経営危機に繋がり兼ねない非常時においても、それを全く感じさせずに誠実に約束を守る姿勢に感銘を受けた。トヨタ自動車はGMを抜いて世界トップとなり、三現主義によるものづくりの力が改めて認識されているが、現場でのものづくりに到る前のトヨタの研究開発、技術開発に触れる機会は大変少なかった。東冨士研究所はトヨタ自動車における研究開発のメッカであり、しかも技術開発全体のトップである瀧本副社長の講演をお聞きするという滅多にないチャンスに巡りあい、大きな期待を持って訪問した。
最初に東冨士研究所管理部長の藤縄康通氏より、研究所の概要説明があり、その後でビデオによる映像が上映された。当研究所では、車両およびエンジンの新技術を開発しており、研究テーマも時代の要求に合わせて、高速・安全 → 排ガス・安全 → 省資源・省エネルギー → 環境と変遷を重ねて来た。トヨタ自動車の研究施設は4ヶ所あり、本社技術部に約10,000名、東冨士研究所に約2,800名プラスアウトソーシング約1,400名、それ以外に豊田中央研究所、士別試験所を持っている。研究開発、技術開発は、豊田中研 → 東冨士研究所 → 本社技術部 → 現場と繋がる流れとなっている。豊田中研は長期テーマを担当し、必ずしも自動車に直接関係しないテーマも研究している。東冨士研究所では、30年先を見据えた研究開発を行い、それを技術研究所が量産の5~10年前の技術まで引き受け、将来の現場量産に繋げている。
東冨士研究所にはテストコースが17種、延べ23kmあり、世界の様々な道路環境でのテストが可能となっている。トヨタの役員は、毎年このコースで自社および世界各社の自動車を運転する行事があり、運転するためには社内ライセンスの取得が義務付けられている。東冨士研究所内で運転するためだけでも、社内ライセンスが必要となっている。
開発済みおよび開発中の技術としてビデオで紹介されたものには、VDIM(高い予防安全性プラス理想的な安全運転システム)、衝突安全技術、次世代エンジン(レクサス用D-4S、インジェクター改良による直噴型)、ディーゼルエンジン(ターボチャージャー改良、クリーンな燃焼とノイズ低減)、ハイブリッド車(燃料電池によるFCHV)、材料開発(ナノ技術による材料開発、軽量化とリサイクル化)などがあった。
次いで本日のメインである講演を、トヨタ自動車における技術の統括責任者である取締役副社長の瀧本正民氏に御願いした。「サスティナブル・モビリティ実現に向けたトヨタの取り組み」と題し、社会の中に存在する自動車という移動手段のあるべき姿およびそのために実施している技術開発を総括的に説明された。
自動車の社会に対する貢献は、モビリティの発展によって経済の発展を可能としたことにある。しかし、同時にいくつかの課題も明らかとなった。第一が有限な石油資源を利用することで、石油に代る代替燃料の利用技術開発を行なっている。第二が炭酸ガスを発生することであり、発生量の削減技術開発を実施している。第三が大気汚染であり、特にオゾン発生量を削減するための窒素酸化物およびハイドロカーボンの発生減少技術を開発している。第四が交通安全である。1990年から世界で死者は減少しているものの、死傷者は逆に増加している。特に中国では毎年10万人の死者があり、増加中であるため、これを減らすことが求められている。トヨタ自動車としては、以上4項目をゼロにしながら、同時に魅力ある商品開発を可能とすることを目標に、技術開発を行なっている。
自動車産業の直面している最大の課題である環境とエネルギーへの取り組みを次に纏めた。石油のピークは2030年と予想されるので、代替エネルギーによって駆動する車の2030年までの普及を目指しているが、普及には多くの壁があり、それを一つ一つ壊しているのが現状である。どの代替エネルギーにも共通のものがハイブリッドであるため、トヨタではプラグインハイブリッド技術をサスティナブルのコア技術と位置付けている。
また石油を可能な限り長期に使える技術としては、走行マイルの向上が不可欠であるため、そのために以下の技術を開発中である。
①走行抵抗性の向上。車両の小型化および軽量化のための材料と設計。
②エンジン、トランスミッションの進化と燃費改良。2010年頃には、新しいものと取り換える予定。
環境対応車として発売したハイブリッド車(HV)は、炭酸ガスの排出量が、ガソリン車>ディーゼル車>HVの順に少なく、現在までの販売数は12車種で累計170万台を超えている(2008年11月時点)。2010年代の早い時期に、年間でHVを100万台販売すること、2020年には全車種でHVを作ることを目標としている。発売以来の技術改良で、小型化、軽量化、低コスト化が進み、出力は1997年~2007年の間に6倍向上した。パワーコントロールユニットの出力密度は3倍に、バッテリーの出力密度は30~35%向上している。
ただ車全体で見ると、台数の多いガソリンエンジン車の燃費改良効果の方が圧倒的に大きいので、トヨタとしてはこの技術改良に力を入れている。
石油代替エネルギーとして、天然ガス、合成液体燃料、バイオ燃料、電気、水素、など様々な候補が提案されているが、どれも一長一短がある。電気自動車(EV)は航続距離、コスト、充電時間、充電インフラなどの問題から、当面近距離のコミューター用途に、2010年早期に小型車(2人乗り)が普及するであろう。
家庭用電気を電源とするプラグインHVでは、短距離用途がEV、長距離がHVと予想している。フランスでのEV実験では、一回の移動で10km以内が80%を占めたので、航続距離10kmでも普及効果は大きいと判断している。ただEVでは、発電方式によって費用効果が異なり、原子力発電の方が火力発電よりも効果が大きい。リチウム電池を積載したプラグインHVを、2009年末までに発売予定している。
次世代電池としては、2008年に電池研究部を設置し、外部との共同研究を実施している。豊田佐吉が提唱した佐吉電池には及ばないが、従来電池の性能限界を突破したものをターゲットとしている。
水素エネルギーを利用した場合、航続距離500km以上というのが課題であったが、現在は700kmまで走行可能であり、-30℃の始動、走行も可能な技術を開発している。。
想定される様々な状況に応えうる研究開発は実施したが、今後どの技術をいつ頃量産技術へ移行させるかが課題である。国毎に異なる対応可能性、行政との摺り合わせなどを考慮しながら決めて行く事になる。
個々の技術を越えた総合的な取り組みも重要である。人、車、交通環境の相互関係を考え、ドライバーのエコドライブ促進(燃費が5~10%アップ)やプローブ交通情報システムを利用した交通渋滞回避ルート案内なども検討している。また安全技術として、予防安全、衝突安全ばかりでなく、プリクラッシュセーフティにより、車同士の相互通信で車間距離が接近し過ぎた場合や出会い頭の衝突防止などが可能になる。車と人との衝突も防止出来ないか、自動運転の可能性はと研究対象は広がっている。
また未来の交通社会として、太陽エネルギー駆動の交通システム研究や人体・脳の研究から安全な車とはどうあるべきかを検討している。今までの技術に頼っていては駄目だと認識しているからである。創立者の豊田佐吉が言った「研究と創造に心を至し、常に時代に先んずべし」という遺訓に従っている。
次いで全員バスに乗り、広大な研究所見学に移った。主たる見学対象を以下に纏めた。
①テストコース走行
自社および他社の車をテストするコース。かなり高角度でバンクしており、高速走行が可能になっている。トヨタの役員が自らハンドルを握り、毎年このコースで走行する由。当日も何台かのトヨタ車が、我々のバスと並行してテスト走行していた。
②iQ
トヨタ車という従来の常識には入らない小型車。1000ccで一台140万円。単なる小型車ではなく、実際に乗って見ると、社内で狭苦しさを感じさせない設計となっている。ダイハツとの共同開発。
③屋内衝突試験設備
トヨタには、本社技術部とここの二ヶ所にある。一年に1,500回ほどの衝突実験を繰り返し、自社車両、他社車両との衝突試験を行なっている。衝突の瞬間は、上下、前後、左右の全面から撮影して解析するが、下部は30cmの厚さのある特注透明アクリル板で観察可能な構造となっている。隣の部屋には衝突実験用ダミーが多数並んでいたが、一体2~3000万円は掛かり、高いものでは一体2億円はするとのこと。実験に10回使用したら、センサーのチェックをおこなっている。
④FCHVバス
日野自動車との共同開発で、高圧水素ボンベ7本を積載している。実際に所内の移動に用いてテストしている。
⑤エンジン開発研
ここではエンジン関連の研究を二件見学した。一つはトヨタらしい発想で、10年から20年先のエンジン開発セットの組立に時間が掛かるため、カセット化を行い、共通部分はカセットとして嵌め込むことにより、開発時間の短縮を図っている。もう一つは、エンジンの燃焼解析のためにエンジンを可視化し、透明な部分にレーザー照射することによって、エンジン内部の燃焼解析を行なっている。
⑥ドライビングシミュレーター
周囲に映し出される街路映像(実際の町並みを再現)に応じて運転し、油圧で車を動かして運転状態が体感出来るシミュレーター。実際には動いていないにも拘わらず、視覚でブレーキを感じると思わず体が反応してしまうほど臨場感がある。人間の感覚の80%は視覚によるという説が体感出来る。65歳以上の運転、居眠り運転、酔っ払い運転などの解析に利用している。
本日の講演および研究所見学を通じて、トヨタの研究開発はまさに横綱相撲であると感じた。基礎に徹したトヨタ中研、30年先を担当する東冨士研究所、5~10年先を担当する本社技術部という研究開発の時系列重層配置を持ち、対象テーマも自動車以外のテーマも実施しながら、世の中に起こりうる変化に対応して必要と考えられる技術をすべて網羅して研究開発し、それを財産として保有しながら、変化に応じていつでも取り出せる余裕を持って対応している。何故トヨタが、自動車産業におけるものづくりで世界一の座を占めるに到ったかの根源を見る思いがした。財務経営の色彩が強いビッグスリーが、トヨタにものづくりで対抗出来なかった理由のひとつがここに集約している。
今日の自動車産業を取り巻く環境は、極めて厳しいものがある。本日見学したような、変化への対応手段を豊富に有するトヨタ自動車であれば、どのような社会になろうとも、必要な技術を引き出しから取り出し、見事に対応していくであろうと感じさせる訪問となった。またものづくりの基本は技術開発にあると再認識することも出来た(文責 相馬和彦)
- コメント (Close): 0
- トラックバック (Close): 0
技術の枠を追い求めて、‘ものづくり’への限り無き挑戦
- 2008-12-15 (月)
- 異業種・独自企業研究会
と き : 2008年11月21日
訪 問 先 : 三鷹光器(株)本社工場
講 師 : 代表取締役社長 中村勝重 氏
コーディネーター: 相馬和彦氏 (元帝人(株)取締役 研究部門長)
2008年度(後期)第3回は、三鷹光器株式会社の本社・工場を訪問した。三鷹光器は世界オンリーワンの超精密精度技術に基づく非接触三次元測定装置で知る人ぞ知る企業であり、またユニークな経営方針や採用試験を実施していて、大変興味のある企業である。今回は、同社の技術開発と経営方針の核心に触れる良い機会であり、大きな期待を持って訪問したが、以下の要約に記載の通り、その期待が裏切られない一日となった。
最初に中村勝重代表取締役からご挨拶があったが、その内容が大変ユニークであった。三鷹光器は社員数が約50名、天文好きな社員が半分を占める。光については何でもやることが社是。その原点は太陽表面のコロナ活動を観察して得た感動にある。戦後何もないところから事業を始めたが、戦争中の食料難時代に東大卒の学者が右往左往しているのを見て、何て馬鹿な人達だと思ったことから自分でものづくりをしようと決心したことが始まり。長兄の中村義一現代表取締役会長に言われて一緒に始めた。三鷹天文台の隣にまず工場を作り、それから天文台の仕事の受注を始めた。最初は天体望遠鏡、オーロラ観測機器、バルーン用太陽観測装置などの設計、製作から開始した。三鷹光器における「ものづくり」は、戦時体験から「生きること」が原点となっている。
CADは入社後3年間は使用させず、まずは自らの創意工夫を設計図なしに絵に描くことをやらせる。CADを使うのは課長以上になってからで十分。入社試験は、①模型飛行機を組み立たせる(制限時間は設けずに、出来上がるまでやらせる)、②営業のために必要な絵を描かせる、ことを実施している。実際に入社試験で作られた模型飛行機や絵を見たが、どれも旨く出来ていた。また終了後のパーティーで若手社員に聞いてみると、もうひとつ試験があるとのことであった。それは中村義一会長に昼食に連れて行かれ、そこで魚料理を食べさせられ、その時の箸の使い方を見て手先の器用さを試験されたということであった。このことは、ものづくりのための創意工夫、発想を絵に具体化して顧客の理解を得るコミュニケーション、それを具体化するための手先の器用さなどを重視していることの表れであろう。
次いで三鷹光器が共同開発をしている三次元の高性能ディスプレイの説明および実物を見学した。本技術は、東北大学大学院工学研究科の鈴木芳人特任教授との共同研究であり、鈴木教授から説明があった。
ディスプレイとして現在主流のLCD、PDPは部品価格がサイズの2乗に比例し、装置価格はサイズの3乗に比例するため、価格的に40~50インチが限界と言われている。大型にはプロジェクションディスプレイが最適である。従来型のスクリーンは3層構造であるが、これを1層とすることにより、①144インチの大型リアプロジェクション、②空中ディスプレイ、③3Dディスプレイの開発が可能となった。
人間の情報入出力では視覚が圧倒的に多いので、画像を制するものが、エレクトロニクスを制し、エレクトロニクスを制するものが先端産業を制することになる。それだけディスプレイ技術は重要なものと認識している(中村勝重代表取締役コメント)。
開発中の3Dディスプレイを見学した。特徴としては、明るいところでも問題なく見えること、拡大が容易であることで、光学機器との組み合わせによる応用が可能となった。例えば医療用途で手術経過の立体画像を撮影して保存したり、明るいところで医療従事者が情報を共有することも可能となる。
次いで工場見学に移った。様々な機器を見学したが、概要を以下に纏めた。
①手術顕微鏡用のOH(オーバーヘッド)スタンド OH4型
ライカ向け製品。設計図はなく、どうやって使うかを見て、現場から出てきたデザイン。米国市場向けが半分で、月20台出荷している。ライカからの要望で、製品にはライカのマークと一緒にMitakaのマークも付けている。現場の隣には工作室があり、頭に浮かんだアイデアをすぐに作ってみるために設置した。あれこれと頭を使うよりも、まず行動で具体化するという考え方が表れている。
②非接触型三次元測定装置 NH-5N型
便利なものよりは必要なものを作るという考え方から作られたもの。精度を保つために、主要パーツは自作している。
③手術顕微鏡
脳腫瘍手術など細かい手術過程を拡大して観察出来る。
④脳外科用手動顕微鏡
重い顕微鏡装置を、殆ど力を必要とせずに簡単に動かすことが出来るため、すぐにフォーカス出来て検査が容易となった。検査後の手術には③の手術顕微鏡を使用する。③と④とを内視鏡手術に使えないかという質問には、規制ですぐには困難との回答であった。
⑤レーザープローブ付三次元測定装置 NH-3N型
トンボの複眼の細かい凹凸が観察出来た。レンズとカメラ以外の部品は自作。
⑥レーザープローブ付三次元測定装置 NH-5SP型
表面ワープに追随して測定が可能であり、極細繊維の紡糸用ノズルのノズル径や深さの測定が可能。
⑦レーザープローブ付三次元測定装置 NH-3SP型
ピックアップレンズなど、非球面レンズの表面測定用。
⑧非接触輪郭形状測定器 MLP-2型
工具や歯車の測定用。歯車は陰になる部分が出ないように回転させず、直動軸で測定する。分解能は1ナノ。ヘッド部分のみ欲しいという要望もあり、顧客が自社の工作機械に付けて利用している。ソフトの制御部分は自社製だが、ディスプレイ用ソフトまで含めて外注。
⑨天体望遠鏡
三鷹光器の原点。スペースシャトル積載TVカメラの実物も陳列されていた。
⑩ライカ向け手術顕微鏡
M525型、ライカ純正品。M720型、三鷹のライセンス品でトップモデル。後者は大幅な軽量化がなされている。最大で月30台出荷。
工場見学より戻ってから、中村勝重氏より「技術の粋を求めて、 ものづくりへの限りない挑戦」と題する本日のメイン講演を戴いた。
三鷹光器はアイデア企業、特許有効活用企業として、セイコーエプソン、もう一社とともに特許庁より表彰された。同社の新製品開発の歴史を見ると、他社がやらないこと、今までの発想では不可能だったことに挑戦して来たことが分かる。例えば原点である天体望遠鏡にしても、鏡筒の重心を支点にすれば、従来必要とされてきた重いカウンターウェイトは不要とのアイデアから開発に成功した。フレキシブル望遠鏡では、カウンターアイを付加することにより、楽に天体が見られるように工夫した。スターライトでは昼間に星が観察出来る。
1966年にカッパロケットに積載してオゾンホール発見に貢献したセンサーを開発した。また同年ブラックホールを発見したX線センサーも開発した。1983年にはスペースシャトルに積載したTVカメラを短期間で開発したが、このカメラは-50℃~100℃の温度範囲で稼動しなければならず、従来の発想とは全く異なる構造を、話を聞いてすぐ絵に描いて提案した。それまでに開発して来た大手メーカーは、温度変化による構造変化を何とかして補正しようとしていたのに対し、中村氏は温度変化による膨張と収縮が構造上打ち消しあうようなアイデアを提案して採用された。1966年のバルーン用太陽観測装置では、バルーンが風によって動き、太陽観測装置を常に太陽の方向に向けるのが困難だったのに対し、観測装置がどの方向に向いていても常に太陽からの光を観測装置に導くような反射導光方式を考え出して成功した。問題に直面した際、それまでの常識に捕らわれず、本質的な問題解決を目指す姿勢が創業以来脈々と流れていることが印象的であった。
非接触測定法はISOに新しい点焦点法として登録が予定されている。
新しい手術機器として開発したMM50型は、25cmの手術作業空間で従来は直径0.5mmの血管接合が限界であったものを、その限界を突破し0.5~0.05mmまでの吻合が可能にした。この手術用高解像度立体視顕微鏡を使うと、白血球サイズの細胞まで観察出来るようになり、従来の手術技術を変革する可能性を提案出来た。これも目で見て絵を描くことが発想の根本にあり、それを育てるため、三鷹光器では課長以上でないとCADは使えない仕組みにしている。
現在エアで動くMRIを開発している。手術に必要な診断のため、MRIやCTはそれぞれ個別の装置で測定しているが、手術顕微鏡のように手術中にも観察可能な装置を目標にしている。生存率は一般手術<術中MRI<術中蛍光診断と高くなるが、新しい方法に認可を得るのは簡単ではない。
これからの夢として、地球を救うために何かしたいということがある。その視点から水に注目した。アマゾンの渇水、アラル海の渇水、地球規模での水不足への危機への対処として、三鷹光機の原点である光技術を活用し、海水淡水化のための技術開発を目指している。集光ミラー、光学センサーによる集光濃縮装置、溶鉱炉などに創意工夫を凝らし、楕円鏡で光を効率的に集める装置(ミタカシステム)でパテントを取得した。これは海水淡水化装置に活用出来、現在バーレーン、スペイン、オーストラリアなどと技術開発について交渉中である。
本日の講演および工場見学を通じて、兎に角創意工夫、アイデアを非常に大切にし、アイデアを得たら直ぐに実物を作ってみる実物主義、現場主義で動きが極めて早いことが印象的であった。この点は、合議主体の大企業では中々真似の出来ない文化である。他方、創業者である中村義一、中村勝重両代表取締役の作り上げた企業文化・風土をどうやって後継者に伝えていくかが気になるところであった。質疑応答の際にこの点をお聞きすると、八つ頭方式を考えているとのことであった。八つ頭のように親芋から小芋が出来、その小芋が独立して次の親芋となり、次の小芋を育てていくことを繰り返して企業文化・風土を伝承していくのが理想と考えている。また今日の発展まで繋がった理由は、①事業をやるという決心、やる気を会社トップが持つ、②自社技術の特許を取得する、③タイミングを見て、それを開発に移すという順序を守って来たことであると考えている。これが中小企業の取るべき道と思う。また開発は自社だけでやるのではなく、特徴のある企業と組むことが重要と位置付けている。
③米国の金融危機が表面化し、各企業では受注の大幅な減少に悩まされているが、三鷹光機では逆に注文が増加しているとのことであり、オンリーワン技術を有する企業の強みが十分に生かされていることが伺えた。オンリーワン技術が産まれるためには、個人の創意工夫を大切にし、常識と異なる発想を切り捨てないという当たり前の経営が見事に行われている実例を目の当たりにし、わが意を得たりと感檄した。また短期的な技術開発・製品開発だけでなく、長期的視点に基づいた夢も大切にしていることも印象に残った。企業内のものづくりで、当たり前のことが当たり前のように行われなくなった例を見かけることが多いが、本日の訪問はそのような傾向に警鐘を鳴らしている。(文責 相馬和彦)
- コメント (Close): 0
- トラックバック (Close): 0
ニコン デジタル一眼レフカメラ D3,D300,D700 開発小史
- 2008-11-26 (水)
- イノベーションフォーラム21
と き :2008年11月13日
会 場 :新宿オークタワー
ご講演 :(株)ニコン 執行役員 映像カンパニー副プレジデント 後藤哲朗 氏
コーディネーター:LCA大学院大学 副学長 森谷正規氏
21世紀フォーラムの2008年度(後期)第3回は、ニコンの執行役員映像カンパニー副プレジデントである後藤哲朗さんの「ニコンデジタル一眼レフカメラ D3,D300,D700開発少史」と題するお話であった。ニコンはキャノンと並ぶ日本の、というより世界のカメラ両巨頭である。いまカメラはいよいよデジタルの時代に大転換しているのだが、ニコンは、デジタルカメラではキャノンに少し後れを取っていた。ところが、この数年、ニコンの本領である一眼レフカメラで、見事に巻き返した。D3が2008年のカメラグランプリ大賞を受賞し、D700も非常に高く評価され、人気を呼んでいる。ニコンは、いかにしてこうした素晴らしい開発を次々に成し遂げたのか、そのお話を詳しく伺うことができた。
後藤さんのお話は、まずカメラマニアであった生い立ちから始まった。キヤノンのファンでもあったと、いまはライバルのカメラの良さを率直に誉める。ニコンに入ってからは、フラグシップのシリーズであるF3の設計から仕事を始めた。それから一貫してカメラの開発に携わってきて、カメラ一筋である。次いで、カメラの歴史を紹介する。カメラオブスクラやダゲレオタイプというごく初期のカメラから入ったが、当時はISOが0、001のレベルであったそうである。写真家の話もあって、“決定的瞬間”のアンリ・カルチエブレッソンの名が出た。まさしく決定的瞬間の写真もあった。日本のカメラ業界の発展の歴史にも触れた。戦後はカメラも、ドイツなどの模倣から始めて、低価格での輸出に努めた。だが、技術は急速に進んで、1962年には生産量でドイツを抜いたという。ニコンが、戦後間もなく、海外でその高性能が認められて、プロカメラマンが愛用するようになった経緯の話もあった。
本論に入ると、カメラの要素技術について、一つ一つ、写真や図面を駆使して、非常に詳しい話があった。その要素が、シャッター、ファインダー、ストロボ、巻き上げ、露出計、フィルムなど非常に数が多く、その説明にたいへん長い時間を要した。カメラとは要素技術がまったく多種多様であり、じつに複雑なシステムであると改めて知った。そして、それぞれに新しいメカニズムを長年にわたって次から次へと出していく。絶えざる進歩が続いてきた技術システムであることを実感した。その絶えざる努力こそが、日本の本領であり、その蓄積は非常に大きく、高度なカメラでの日本の強さは、今後も少しも揺らがないだろうと思わせた。
そのさまざまな新しい技術は、カメラメーカーの側から提案したものが大部分であるという。自動露出や自動焦点もメーカーからの提案であり、プロカメラマンは当初は、そんなものは不要だと反発したが、いまではそれを完全に受け入れている。
そのメーカーからの提案は、デジタルカメラの時代になって、新しい方向に向いているようだ。いまニコンが提案しているものが三つ紹介されたが、第一は、写すシーンをもとに、いかに良い写真にするのかの手段を示して選んでもらうものだ。第二は、顧客から写真を預かって、いつでも提供できるようにすることだ。第三は、カメラで動画を撮って、ムービーにすることである。これらはデジタル化して、その処理と記録の技術が非常に大きく進んできたことによって可能になったものである。カメラとその使いようが大きく変わってきていることを実感した。
巻き返した3種のデジタル一眼レフカメラの開発をいかに進めたのかの話では、キヤノンを強く意識して、2007年に、キヤノンが新機種を出すのを待って、それを見て、超える性能の新製品を出したという。もちろんそれは、高性能、高機能を目指した開発に非常な努力を積んできたから可能になったのだが、隅っこの光も集光する、16ビットで処理をする、1005に分割してシーン認識をする、光源を正確に把握する、マグネシウム合金のボディでゴミの侵入を完全になくすなど挙げればキリがないほどの数多くの新技術を開発している。デジタルカメラでは、やれば可能になる新しい機能がいくらでもあるのだと分かる。デジタルは、カメラを大きく変えていることを痛感した。
だが、カメラにおいてアナログ技術がいまも非常に重要な位置を占めていることも強調された。デジタルで高度なことをやる基礎がアナログ技術であるようだ。多種多様な要素技術にも、アナログが基本であるものが多いのである。
最後の質疑と討論の時間に面白いやりとりがあったので、紹介する。ニコンは、キヤノンに生産台数では大きく離されている。それはコンパクトカメラが得意ではないからだ。いまでは、新機種を出しても売れるのは半年だけという大乱戦になっていて、ニコンは得手ではない。そこで、私が、ニコンはコンパクトカメラを止めてしまったらどうかと、少々挑発的なことを言った。すると後藤さんは、顧客のニーズを掴むために、生産技術を確保するために、コンパクトカメラは絶対に止める訳にはいかないと強い口調で答えた。そこで、ではコンパクトカメラは、同一機種を4年も5年も作り続けて、それで評判を高めるのはどうかと言うと、それは考えられるとのお答えであった。ニコンの持つ非常に高度な技術を活かして、ニコン独自の行き方をして欲しいものである。
(2008年11月 森谷正規)
- コメント (Close): 0
- トラックバック (Close): 0
トータル モーション テクノロジーの極限を目指して
- 2008-11-17 (月)
- 異業種・独自企業研究会
と き : 2008年10月2日
訪 問 先 : ハーモニック・ドライブ・システムズ 穂高工場
講 師 : 執行役員 最高技術責任者 清沢芳秀氏
コーディネーター: 相馬和彦氏 (元帝人(株)取締役 研究部門長)
2008年度後期の「異業種・独自企業研究会」第2回は、10月2日にハーモニック・ドライブ・システムズ(以下HDS社と略記)の穂高工場を訪問した。HDS社は一般には名前はあまり知られていないが、トータルモーションコントロールでは世界でオンリーワンの技術を有し、宇宙・航空、ロボット、天体望遠鏡、外科手術、油田掘削など、精密かつ信頼性の高いモーションコントロールが要求される分野では必須の技術となっている。しかも創業以来、技術を極限まで追求する姿勢を堅持している企業であり、その実態に触れる得がたい機会となった。
最初に取締役副社長で最高製品(開発・製造)責任者兼海外事業担当の涌本晴雄氏よりご挨拶があった。HDS社の工場は国内では穂高のみであるが、海外にはドイツおよび米国(ボストン近郊)を有し、三会社で世界をテリトリー分割している。産業用途では、この三社で殆ど専有状態にある。
次いで執行役員で最高技術責任者兼品質責任者の清沢芳秀氏より、会社概況の説明があった。ハーモニック・ドライブ(HD)技術は、1955年に米国の発明家C.W.マッサーが発明したものである。駆動ドライブ用歯車として、従来とは全く発想の異なる楕円形歯車を提唱した。この技術により、使用する歯車の数が減るため、必要なスペースが少なくかつ歯車の遊びも減少するので、結果として精度が著しく向上する。必要な基本部品は三点あれば良い。
HDS社の前身は長谷川歯車であり、1955年にハーモニック・ドライブ(HD)が発明されるとこれに目をつけ、1964年に技術導入に踏み切った。1970年にHDS社が設立され、その後合弁や米国企業傘下の時代を経て、現在従業員は単体で231人、連結で370人である。国内には子会社が4社あり、そこで遊星減速機や部品製造を行っている。海外にはドイツと米国に工場がある。受注生産と少量・多品種が特徴である。
市場としては、1980年代に産業用ロボット、1990年代に半導体(小型HD)、2000年代に液晶製造装置(大型HD)、その後は医療・航空用途が出て来て、現在のトータルモーションコントロールシステムへと進化した。これは、モーター、センサー、アクチュエーターが一体化したシステムである。
HDの特徴としては、小型、軽量、ガタがない、高トルク、高位置決め精度、高繰り返し位置再現性、一段で高い減速比、高効率、高剛性などを挙げることが出来る。主たる用途は、産業用ロボット25.9%、半導体16.3%、フラットパネル7.2%、モーターメーカー向けギヤヘッド10.1%、土木建設機械5%などがある。
現在製造されているHDは直径が13~330mmの範囲で、型式としては10種以上あり、月産でおよそ3万個。95%は特殊品で完全受注生産のため、平均のロットは7個と非常に少ない。歯車は削り出しの切削加工で製造している。
企業活動以外に地域貢献として、講演会やコンサートなども積極的に実施している。
この後工場および施設を見学した。見学概要を下記に纏めた。
①美術館「飯田館」
美術館は従業員の感性を高めるために設立し、絵画や彫刻が飾られている。後刻のパーティーもここで行われた。設計は槙文彦氏で、氏は幕張メッセ会場や新しいワールドトレードセンターの設計にも関与した。
②I・K Kan
HDS社の技術的基礎を築いた石川、亀田両氏を記念して建てられた研究棟で、HDの角度伝達誤差を現状技術の1/10に向上、精密加工・精密測定の可能性追求、他社依存ノウハウの内製化などを意図している。23±0.5℃で温度制御し、床下は防振のため砂利を敷き詰めている。
③マッサー記念室
HDの発明者であるC.W.マッサーの使用した道具や装置の実物が展示されている。遺族から入手したとのこと。マッサー(1909-1998)は町の発明家で、バズーカ砲や緊急脱出装置なども発明している。
④メカトロ組立工程
型式5種、モーター3種を組立。生産数は一人当たり一日30~50個。
⑤FHAC組立・生産・検査工程
半導体の搬送用に使用するアクチュエーターの生産。
⑥評価エリア
アームに重りをつけた負荷試験を実施。これで製品寿命を測定するが、負荷による磨耗の大きさで判断している。
⑦部品加工工程
切削、穴あけ、トリミングなど。歯車加工は1~2μの差を手で判断している。作業者は社内で認定を受けた者が担当する。
⑧ユニット品組立工程
最近ユニット品の要望が増えている。すぐに使用出来ることがメリット。
上記に加えて、恒温測定室、受入検査・倉庫、検査工程、性能試験、ショットピニング工程、フレックスプライン加工工程なども見学した。
工場見学より戻ってから、清沢芳秀氏より「トータルモーションテクノロジーの極限を目指して」と題する本日のメイン講演を戴いた。
減速比が1/5~1/10だと、HDはたわみで薄肉部分が壊れやすく、1/40以下が適している。ただ従来の歯車だと、1~2枚程度の歯が噛み合っているに過ぎないのに、HDだと全体の30%が噛み合っているので、高精度かつ高トルクを出すことが可能になる。HD開発の方向は、①負荷/体積比向上、②高位置決め、③超小型化であった。1965年~2000年の開発努力の結果、①負荷/体積比は7倍以上に、②回転精度は10倍以上に向上した。HDは民需中心で技術進歩した。こういう技術は軍需用途にも適しているが、HDS社は軍需を手掛けないことにしていた。その理由は、軍需は確かに採用時には最先端技術を採用するが、一旦採用されると信頼性の観点より10~20年は継続してその技術を使用するため、技術進歩の必要性がなくなる。そのため、会社としての技術進歩がなくなる。マッサーの技術を、HDS社と米国のUSM社が同時に技術導入したのにも拘わらず、結果としてUSMが20年は技術で遅れを取ってしまったのは、軍需中心で技術開発したからである。逆にHDS社は民需を中心とし、軍需を手掛けなかったことが幸いした。この事実は、メーカーの経営方針に対して大きな示唆を与えている。
次にHDS社が実施してきた具体的な技術開発の事例を纏めた。
①高強度型フレックスプライン
従来型インボリュートは噛み合いが10%程度であった。そのため、曲げ応力の低下、噛み合い歯数の向上を目指し、噛み合い歯数を全体の30%にまで向上させた。その結果、歯底疲労強度が2倍、ねじり剛性が1.5~2倍にアップした。
②コンパクト化 短胴化開発
3次元的な噛み合い、応力緩和による疲労強度向上を目指した。Rシリーズの短胴化では、1981年~時点のサイズを1として、1991年~では3/5に、2000年~では1/3になった。
③シルクハット型
中空構造をしており、日本だけで生産。一部はドイツでも。
④コンパクト化 クロスローラーベアリング組み込み型ユニット。
⑤軽量化 アルミ合金を使用。重量は45%低下するが、負荷容量は従来品と同等。
⑥超小型化 外径が1982年33mm、2002年20mm、2006年13mmと小型化。2007年にはロボット大賞を受賞した。
⑦高精度への挑戦 ±2秒の精度達成。High precision rotary table
遊星減速機を減速比1/5~1/45の領域用に開発した。
またメカトロニクス分野では、DCサーボアクチュエーターからACサーボアクチュエーターへ、更には中空扁平ACサーボアクチュエーターへと発展させたことと、DCサーボアクチュエーターからリニアアクチュエーターへ発展させた二つの道を取った。中空扁平ACサーボアクチュエーターは精度がDDモーターに劣るものの、サイズが小さいというメリットがある。モーターについては、高分解能DDモーター、38mmの超扁平モーター、ボールネジ組込式中空モーターなどを、小型化ではハンドアクチュエーターを開発した。
応用分野としては、産業用ロボットの特殊なものではシェアが約40%。その他に計測装置、人工衛星のパネル方向制御装置、火星探査車”Rover”の駆動部分、遠隔手術ロボット(“Da Vinci”)、すばる望遠鏡のアクチュエーターなど多くの製品に採用されている。
講演終了後の質疑応答が活発に行われたが、HDS社の軍需を手掛けないという方針について、参加者からも自社の経験を含めた質問や意見が出された。軍需用途は開発費の面倒を見るため、最先端の技術開発が出来るというメリットがある反面、一度開発した技術の変更が困難なため、そこの段階で技術が停滞する危険性が指摘された。逆に民需では常に新しい技術が求められているため、継続的な技術開発が必要となる。社員の感性を磨くための美術館建設が、企業活動の中で可能な背景については、初代と二代目の経営トップは海外生活が長く、最初から週休2日制、社会貢献重視の方針を出していたためとのことであった。また平均ロット数が7個という少量・多品種生産をどのようにして経済的に成り立たせるかについては、やはり初期には生産管理で苦労したようであるが、小ロット生産をメリットに変える工夫をしている。計画を重視して段取を少なくかつ短くする工夫を凝らしており、計画達成率は98~99%の高さになっている。
今回は世界オンリーワン技術を誇るHDS社の創業以来の経営方針、技術開発方針を詳しくお聞きしたが、やはり確固とした経営哲学とそれに基づく技術開発方針があった。殆どの製品が受注生産であるということは、顧客も自社の最先端技術を駆使した製品開発に必要な部品としてHDを位置付けていることであり、HDS社は技術の極限を追求することによって見事にそれに応えてきたことを如実に示している。こういう日本の優れた基幹部品が、日本の製造技術全体を支えていることを再確認した訪問となった。(文責 相馬和彦)
- コメント (Close): 0
- トラックバック (Close): 0
わが国航空機産業の悲願、国産旅客機事業の創出に挑む
- 2008-11-08 (土)
- イノベーションフォーラム21
と き :2008年10月9日
会 場 :森戸記念館
ご講演 :三菱航空機(株) 取締役社長 戸田信雄 氏
コーディネーター:LCA大学院大学 副学長 森谷正規氏
21世紀フォーラム2008年度(後期)の第2回は、三菱航空機取締役社長である戸田信雄さんの「わが国航空機産業の悲願、国産旅客機事業の創出に挑む」と題するお話であった。良く知られているように、三菱重工業は座席数70-96の小型ジェット旅客機MRJ(ミツビシ・リージョナル・ジェット)の開発、事業化を決めた。三菱航空機はそのために設立された会社である。戦前はゼロ戦を作って世界でも冠たる航空機産業を持っていたのだが、戦後になってGHQに航空機の開発,生産を全面的に禁止されて、航空機産業は壊滅した。やがて、開発禁止が解けて、ターボプロップの小型旅客機YS11を開発して事業化した。これは、性能は悪くなかったのだが、世界市場での販売はなかなか進まず、巨額の赤字を出して事業を閉じた。その後は、国産旅客機の開発は強い願望であったのだが、リスクが非常に大きいために手が出ず、いまになってようやく本格的な旅客機への進出が可能になったのだ。MRJは2011年に初飛行し、13年から納入を開始する予定である。
三菱重工業の経営トップは、リスクを覚悟しての決断をしたのだが、戸田さんは淡々と話を始めた。まずは、MRJがいかなる旅客機であるのかを詳しく説明する。このクラスには、カナダのボンバルディアとブラジルのエンブラエルがあって競合相手になるが、MRJは、燃料消費率が少ない利点で勝負するという。P&Wの新しいエンジンを採用して、3割も燃料消費を減らすのである。原油価格が高騰しているいま、これは販売の強い武器になるに違いない。もう一つ、騒音もかなり減少させた。つまり、環境にとって好ましい旅客機であり、それはいまどうしても必要な条件だ。
燃費を良くするためには機体の軽量化が必要だが、それは主翼にCFRPを用いることで実現した。三菱重工業は、ボーイングから委託を受けて生産する中型旅客機の主翼などにCFRPを採用してきており、技術力は非常に高い。なお、胴体はCFRPではなくアルミ系の材料である。それは、比較的短距離であるから空港の離陸、着陸の回数が多く、空港内を走る自動車がぶつかる事故の可能性があるので、修理の容易なアルミ系にしたとのことである。
次ぎに世界の航空機産業について話された。米国が圧倒的に大きいのだが、日本は、英仏のほぼ3分の1の産出高であり、次いでドイツ、カナダだが、これは間もなく抜けるという。米国にはこれからも適わないが、MRJを契機に、日本は主要な航空機産業国の一つへ進むことになる。日本の航空機産業は、米国が開発したジェット戦闘機の生産が中心の防衛需要を柱にして発展してきたが、ボーイングからの委託生産によって、いまでは民間需要がほぼ半分を占めるようになっている。これからは民需が主になっていくことになる。
なお、三菱重工業は、ゼロ戦を作っており、戦前には軍用機ではトップの企業であったが、戦前の最盛期には年間4000機の航空機を生産したと聞いて驚いた。日本は、戦闘機の性能は優れていたが、生産力が米国に大きく劣っていて敗れたと聞いていたので、その生産量の大きさに驚かされた。ということは、米国はもっと凄かったのだ。
今後の展望としては、これからの14年間に1000機の受注を取って生産していくとのことである。1000機は生産額としては、4兆円になる。さすがに巨大であり、1800億円ほどになる開発費が充分に回収できる。このクラスの旅客機にはこれからの20年で5000機の需要があると言われており、まずは30%のシェアを取り、さらに大きく伸ばしていくという目標を立てている。カナダ、ブラジルに加えて、ロシアと中国がこのクラスに参入してきて、五つの国での争いになるが、勝算はあるようだ。
質問、討議に入って、大きなリスクを賭けることになる事業に挑戦する経営者の決断がいかなるものであったのかを質問した。
一般には、販売が500機にも満たないと巨額になる開発投資が回収できないリスクが言われるのだが、現実には、事業を開始すると巨額の生産投資を行うので、さらに大きな損失を被ることになる、そのリスクも充分に考慮して、踏み切ったとのことである。
淡々と話されたが、経営陣の決意のほどが良く分かり、全力を上げて事業を成功させる覚悟であると分かった。三菱重工業としては満を持しての事業化であり、何としても成功させる自信があっての出発であると感じ取れた。MRJが日本の航空機産業を世界に伍するまでに発展させる出発となることを期待したい。
(2008年11月 森谷正規)
- コメント (Close): 0
- トラックバック (Close): 0
三洋化成のネットワークR&D戦略
- 2008-10-24 (金)
- 異業種・独自企業研究会
と き : 2008年9月24日
訪 問 先 : 三洋化成工業(株)桂研究所
講 師 : 代表取締役 執行役員副社長 増田房義 氏
コーディネーター: 相馬和彦氏 (元帝人(株)取締役 研究部門長)
2008年度後期の「異業種・独自企業研究会」第1回は、9月24日に三洋化成の桂研究所を訪問した。三洋化成は大量生産の汎用品ではなく、少量多品種の特殊化学品を製造する国内では数少ないメーカーである。過去多くのシーズを生み出してきた研究所を訪れることで、研究開発の源泉について大きな示唆が得られるのではないかという期待を持って訪問した。桂研究所は市内の本社敷地内にあった研究所が手狭になったため移設を決定し、本年6月に完成したばかりの新研究所であり、見学の最中も未だ一部では完全に移転が完了しておらず、ペンキの香りが残っているピカピカの状態であった。ここは京都駅から西の丘陵に位置し、吉田山から移転した京都大学桂キャンパスが隣接しているため、産学協同研究がやり易い利点がある。周囲は竹やぶに囲まれ、京都盆地を見下ろす好位置にあって、研究環境として優れていることが理解出来た。
最初に代表取締役執行役員副社長で研究・技術開発機能担当の増田房義氏からご挨拶があり、次いで桂研究所長兼開発研究本部 エネルギーデバイス材料研究部部長の河原裕氏より、「会社及び桂研究所概要」について説明がなされた。
三洋化成の研究開発費は売上の5%を投入し、5年間の新製品比率を40%に目標設定している。界面活性剤が会社のスタートであるが、研究所の壁に特許数の多い研究者名がリストアップされており、毎年Innovator of the Yearを表彰するなど技術開発を重視していることが伺えた。グローバル化に対しては、チャレンジ10の目標設定で挑戦している。
桂研究所の敷地は、桂イノベーションパーク内にあり、京都大学桂キャンパスが隣接している。ネットワーク型R&Dを目指し、大学、公立研究所、企業群との協力関係を重視している。京都大学では桂インテックセンターなどを活用している。
研究所の床面積は現在6,538㎡あり、収容可能人員は100名であるが(実際の在籍は80名、その外本社研究所に若干名)、将来は9,000㎡、200人収容まで拡張可能である。研究分野は電材、バイオ、環境に設定している。
次いで研究所内部を見学した。まず屋上に上がったが、遠くに比叡山、大文字焼きが見え、その手前は京都の町並み、近くは緑の竹やぶが一望されるため、好天にも恵まれて大変爽快な気分となった。最初はプロセス開発室を見学したが、射出成型機、加熱プレス機、反応器、フィルムの二軸延伸機などがあり、試作も行うとのことであった。実験室は実験台と机が隣接していて、研究員間の密接な情報交流が図られていた。研究開始から市販までに要する時間を尋ねたところ、早いもので半年、通常は1~2年と通常の化学品にしては大変早く、意思決定が極めて迅速に行われている企業風土が感じられた。
ショールームには、様々な分野の製品が陳列されており、製品数は3,000に達するとのことであり、少量多品種の実態が良く分かった。
次いで京都大学桂キャンパス内にある京都・先端ナノテク総合支援ネットワークを見学した。まずX線誘起光電子分光によるナノ構造表面評価装置およびナノファブリケーション装置を見学した。後者は物理的および化学的方法により、新しい機能のデバイス開発を目標にしている。いずれも企業が申し込めば、利用可能となっている。次にシステムシミュレーションラボを見学したが、建設会社との共同研究で、橋梁の耐震実験が行われていた。また風によって起こる波の状態を解析する装置で、稼動状況も見学出来た。この実験室も企業が申請すれば、5年間は継続利用が可能とのことであり、企業との共同研究や企業への設備開放が実施されていた。
見学から戻った後、本日の本題である講演「三洋化成のネットワーク型R&D戦略」を、増田房義副社長から伺った。
三洋化成は1949年に京都の町工場から出発した。当時三井物産と東洋レーヨンの出資を受け、社名を三洋化成と名づけた。遅れてきた会社なのでユニークな経営を目指し、創業当初から技術重視を経営方針とした。
「ニーシーズ指向」は1970年、「人中心の経営」は1990年頃から始め、手の届く施策を常にリニューアルすることを目指した。2008年3月期の売上は1,352億円、経常利益は58億円であるが、2004年からは原材料アップの影響を受けている。分野別では、ウレタン関連製品が25%、親水性高分子薬剤が23%、親油系高分子薬剤が21%、界面活性剤が18%、特殊化学品が12%、その他1%の割合である。また地域別売上では、国内が68%、海外が32%であるが、海外は輸出を含むため、海外の生産量自体はもっと低い。
経営方針として特徴的なのは、第一は人中心の経営である。具体的には、社員は明示された主責任と明示されない副責任を持つことである。第二はマトリックス運営で、営業と研究、ライン研究とコーポレート研究がマトリックスで運営され、常に両者をバランスさせている。毎年研究者の5%を外に出すことで、人的な交流を促進していることも、これらの方針が具体的に運営可能な理由になっている。
研究開発は以下のような方針に基づいて進めている。
①ニーシーズ指向で、独創的かつ高性能な製品を開発する。この方針の結果、製品総数として3,000個を上市している。ニーシーズ指向とは三洋化成の造語で、ニーズに対応して開発した技術に別の技術を複合させ、これをシーズとして新しいニーズに対応する製品を開発し、これを連鎖反応的に継続実施するというものである。ニーズ指向、シーズ指向の一方だけを追及するのではなく、両者を組み合わせて更に上のレベルを目指そうとしている。
②過去5年間の新製品・改良製品の比率を40%に維持する。これは常に新しい製品、改良製品を開発出来なければ達成困難な目標で、世界的にもこれと類似の目標を持っているのは3M位である。
③一人一人がチャレンジ出来るように、フラットな組織運営を行っている。組織としては、本部長-部長―RU(Research Unit)長とフラットで、RU当たりの平均人員は5~6名である。全体で430人在籍者がいるなかで、RU長は現在64人いる。
④「ビジネスクリエイト」というパーソナルチャレンジ制度があり、チャレンジは51件あったが、そのうちの17件が成功した。成功した人達は、その後RU長や研究室長へ昇格という評価を得ている。
組織は機能部制を取っており、これが成功確立のアップに貢献している。人の育成はOJTが基本で、近未来、未来、遠未来道場などいろいろな育成の場が社内に存在している。
過去の売上増加は、界面活性剤 → ウレタン関連製品 → 親油性高分子薬剤 → 親水性高分子薬剤 → 特殊化学品と発展したことによるが、それではこの次に何をやったら成長を継続出来るかが現在の課題となっている。ニーシーズ指向の行き詰まりかも知れない。77~80年は、新改良品の売上が138億で、売上比率が40.8%を占めていた。この時のR&Dには220人投入し、一人当たりの新改良品売上は63百万円であった。99~01年は、新改良品売上が270億円、売上比率は37%、R&Dには360人を投入したが、一人当たりの新改良品売上は75百万円に止まり、期待したような進歩が見られなかった。このまま同じやり方を継続して、果たして成長が維持されるのかという疑問が出て来た。
成長が遅くなった背景には、いくつかの理由が考えられる。
①ニーズが豊富だった時代に比べ、ニーズそのものが減少してきた。
②新しいニーズを捕まえるためにも、飛びぬけたシーズが必要となる一方で、化学業界自体の競争も激化して来た。
③企業内部の決定が上に上がる傾向があり、そのため決定の動きが遅くなって来た。
最近で成功した例を見ると、共通した特徴が見られる。
①ユーザーとの共研の中から具体化した。
②ユーザーの化学知識が豊富となってきたため、独創的なアイデアを提供した。
③決定権が上に行っているので、下での合意だけでは不十分となり、トップ同士を巻き込んで企業戦略と整合した商品を開発した。
そのため、今後は、以下のような方策を行い、ネットワーク型R&Dで対応しようと考えている。
①組織ぐるみの取り組みを行う。
②大学を入れた産学協力を推進する。桂インテックセンターに見られるように、大学も産学協力には熱心。
③日本の「和」を世界に発信する。
これがこれからのネットワーク型R&Dと考えている。
締めくくりに事業研究本部 研究業務本部 本部長の前田浩平氏より、「三洋化成におけるR&D事例研究」と題して、具体的な研究成果について講演があった。一部を以下に要約した。
①高吸水性樹脂(SAP)
殆ど紙おむつに使用されているSAPは、現在世界で170万tの生産規模に達しているが、三洋化成が世界に先駆けて開発したものである。76年にラボで合成したものを78年に商業生産した。83年から花王やユニチャームに採用され、市場が拡大した。94年からは原料のアクリル酸を製造する三菱化学とJ/Vを組み、グローバル化に成功した。
②永久帯電防止剤「ペレスタット」
ポリオレフィン製品の帯電防止剤で、PPに剤を練りこんだもの。
③インパネ用ウレタンビーズ
粒子径が良く揃ったウレタンビーズで、自動車用インパネとしてトヨタに採用された。研究から10年掛かったが、最近伸びている。両社の技術トップの合意が得られたため、開発へ迅速に進められた。
④ポリエステルビーズ
トナー用であるが、画像が鮮明の上、省エネ効果もある。これも技術トップ間の合意が得られてから、密接な関係が構築出来た。③、④の実例は、トップ間の合意で戦略的に進めることの重要性を示唆している。
内容が具体的かつ豊富で、R&D戦略の本質に迫る内容であったため、講演後の質疑応答が活発に行われたので、要旨のみ簡潔に纏めた。
①研究から事業化までの期間が、化学企業の一般常識からは極めて早いことについて。
事業化の際にあまり細かい事業性の議論はせず、むしろ市場の5%を取れるかどうかという点を重視して決断する。
②3000余の製品群を有し、かつ5年間の新改良品比率が40%を目標としているが、それぞれの製品の継続販売/中止決定をどのように行っているか。
三洋化成では個々の製品毎に事業性データがあり、それを研究と営業が共有しているため、継続/中止の合意が得られやすい。また3年間赤字を継続した場合には、原則その製品は中止するというルールもある。
③社員の育成方法は。
特に教育体系は持っておらず、OJTが基本である。
今回は、ユニークな多数の製品群が産み出されている三洋化成の研究所現場を訪問し、研究開発を指導している幹部役員の講演をお聞きすることが出来たが、その根本には研究者および社員を生かし、大切にする「人中心の経営」があることが理解出来た。どんなに良い制度を作っても、魅力的な給与体系を持っても、最後は技術を支える研究者のやる気を起す経営、すなわち「人中心の経営」に勝るものがないことを改めて痛感した一日となった。この考えさえあれば、経営環境がどのように変わっても、競業状況に変化があっても、常にその時に環境下で最適な経営が可能となり、企業は継続的に発展するであろう。また、新製品を次々に生み出す技術方策として、ニーシーズ法を実行している。筆者は企業の研究開発を担当していた頃から、新製品を継続的に産み出す方策として、①既存製品を支えるコア技術を確立する、②それだけでは新製品を産み出すのに限界があるので、新しいコア技術を自社で創り出す、③既存製品のコア技術と新しいコア技術を組み合わせて、新製品を産み出す、④このコア技術が既存製品のコア技術に追加される、⑤以上②~④を繰り返すことによって新製品を継続的に産み出すことを提唱して来た。筆者の提唱して来た方策と、三洋化成のニーシーズ法とは極めて近い考え方であり、それが成功してきたことに勇気付けられた。
(文責 相馬和彦)
- コメント (Close): 0
- トラックバック (Close): 0